第31話 48億の個人的な憂鬱4
離れるしかないと思った。
僕はそのうちどこかに異動になる。
たいてい2~3年で人事異動がある。運良く僕はそれまで異動対象にならなかったが、もし異動になればそこで環境がリセットされ、またなにかを積み上げる作業に入ってしまう。それは、ミュージシャンから離れていくことを意味する。
「仕事を辞めて、一枚のアルバムを作る。それでなにも変わらなかったら、きっぱりミュージシャンを諦める」
生まれて初めて、僕は両親に宣言した。
珍しく本気の表情で話したことで、父は「わかった」と了承した。
一枚のアルバムを作ろうと思った。
全曲新曲で、思いの限りのクリエイティブをそこにぶつけようと思った。これを作って世の中が変わることなどないことは分かっていたが、絶対に言い訳ができないところまで思いのまま作ったものを完成させようと思った。その先にいる自分に会ってから諦める。
宇多田ヒカルはこの時点ですでに、3枚のアルバムをリリースしていた。売れているだけではなく、内容も本当に素晴らしかった。
「自分は人とは違う、選ばれし特別な人間だ」という勘違いが解け始めていた。選ばれし特別な人間は宇多田ヒカルであり、僕はどこにでもいる、あくまで安全圏からの勝いしかできない夢見るミュージシャン
このルックスも、この性格も、全ては「選ばれし特別な人間」という前提の上で成り立っていた。それが、自分と自分との了解事項だった。
普通だった。特別じゃなかった。
普通の自分に会いにいくのが嫌だった。出来ればこのまま決着をつけたくない。特別なんだと勘違いしていたい。
僕にとってこのとき、仕事を続けることこそが最良の現実逃避であり、退職することが現実との直面だった。もう少し、なにも考えず仕事を続けていたかったが、思い描いていた25歳の自分と現実の自分があまりにもかけ離れすぎていたため、確認しなければいけない限界地点に来ていた。
それは、自分の傷口を直視するような行為だった。グロテスクに損傷した自分の傷口は、出来れば見たくない。見たくはないが、見なければ状況が分からない。治しようもない。
6歳のときは、怪我した左足を見ずただ泣き叫ぶだけで誰かが助けてくれた。25歳の大人がただ泣き叫んでいるだけでは、当然誰も助けてくれない。血は流れ続ける。
特別じゃないかもしれない自分。才能がないかもしれない自分。特別で、才能があると信じ続けた男が、凡人の自分に会いに行く。
そうして2004年、僕はニートとなった。
ここから僕の、堕落と退廃の日々が始まった。
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