第22話 ここでうまくやろう

入社した新宿の駅ビル内にあるCDショップは、うつ病で休職中の人だらけだった。


仕事は音楽のジャンルで分かれていて、JP(邦楽)、RK(洋楽ロック)、R&B(洋楽R&B)、WL(ワールド・ミュージック)、ビジュアル(DVD)の5つ。


やることは売り場のメンテナンスや商品発注、管理、接客。


毎週新譜は入ってくるし、メーカー営業も連日来るし、イベントはあるし、まだCDが売れる時代だったから仕事量は多かった。


売り場に出ない仕事がプロセスと会計で、プロセスは入荷作業や防犯タグケース加工などを行う裏方業務で、当番制のレジ業務以外は一日バックヤードにいる。


会計は、厳重に鍵がかかった別室で仕事をする、文字通りお金の会計管理。


僕は、一番地味で激務といわれる、プロセスに配属された。


東京という環境に慣れることを優先としていたから、裏方でも構わなかった。


ビル共有の社食は、いつもモデルみたいな美人アパレル店員で溢れ返っていて、目のやり場に喜んだ。


しかし研修期間が終わる3ヶ月も経つ頃には、全てが風景と化し、なにも感じなくなった。


彼女らと僕の間になにか生まれるわけでもないし、あくまで彼女たちはオシャレな世界の住人であって、音楽オタクの僕らを、どこか見下しているような素振りさえあった。


先輩たちは時間が空くと、僕が入社する前の職場の雰囲気を、嬉しそうに語った。


「昔は修羅場だった」


「毎日大喧嘩で」


「発狂してそこで転げ回ってた」


今も似たようなもんじゃないかと思ったが、確かに出勤表には、知らない人の名前がいくつかあった。


のちの「ブラック企業」や「パワハラ」という言葉の誕生に繋がっていく「うつ病」が日本で広がり始めたのが、この頃だった。


プロセスは最も大変な仕事と言われていたし、面白味こそなかったけど、僕には叶えねばならない目標が目の前にあったから、職場の人間関係で悩むことはさほどなかった。


とにかく、先輩に言われたことを間違えず淡々とこなせば良い。それでお金をもらって、サンプルCDをもらって、社食で美女でも眺めていれば、孤立しようが嫌われようが構わない。


誰と誰が付き合って、それが原因であそことあそこが仲が悪いとか、30人程の従業員の人間関係はすでにぐちゃぐちゃだったけど、地元のバイトでも似たようなことはあったし、蚊帳の外の僕は呑気なものだった。


そうして朝の新宿駅のホームで、女子高生に土下座するサラリーマンを見ても何も感じなくなるほどに、僕は東京に溶け込んでいった。


当時、新宿の洗礼といわれていた名物の一つが、新宿タイガーだ。


タイガーマスクのお面を被り、派手な自転車で回る新聞配達おじさんで、最初見たときは衝撃を受けた。


なにより異様だったのは、周囲の誰一人として、そのおじさんに関心を示していないことだった。


新宿の住人にとって、新宿タイガーは日常風景なのだ。


やがて僕も、会えば挨拶を交わす程にまで慣れていった。


仕事が終われば適当に新宿をうろつき、新宿タイガーに驚く上京したての田舎者を鼻で笑う、悪い埼玉県民のお手本そのものと僕は化していった。


新宿にも職場にも慣れてくると、次第にまた、自分がいてもいい場所という安堵感に引っ張られる。


「おはようございまーす」と言ってバックヤードを開けると返ってくる「おはよー」に落ち着く。


この人たちは僕を知っている。でもここを一歩離れたら、誰も僕を知らない。


誰も僕を知らないステージに出て行って歌を歌う。


僕を知っている人しかいない世界で他人の歌を売る。


やるべきことは前者なのに、後者の安堵感が僕を薄っぺらい新宿色に染めていく。


専門学校には北海道から沖縄まで、全国からミュージシャンを夢見る若者が集まった。


この職場も、半分以上が地方出身者だ。みんな実家を出て、田舎から出てきている。


学校にも職場にも、実家・地元から通える埼玉県民とは、決定的な覚悟の違いがあった。


このままではまずい。


ライブに出よう。


ステージに出ていかなければ。


誰も僕を知らない世界に、飛び込んでいかなければ。


あまりにも遅すぎたその決断は、のちに多くの現実を突きつけられることになる。

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