第17話 いろんなことを諦めて言い訳ばっかりうまくなり

90年代、音楽は常に文化の中心にあった。


安室奈美恵のファッションを真似るアムラー、コギャルは街に溢れた。


服装は常にミュージシャンにより感化され、デートも遊びもカラオケが定番、CDは飛ぶように売れ、たくさんのCDを持っていることがカッコいいという概念さえあった。


大量のシングルを安くレンタルして、テープにダビングするものも多かった。機械に強いものはこのときすでにMDを扱っていて、のちCD-Rに入っていく。


サギタニ家はみんな機械に弱かったけど、僕のエンタメ好奇心はメカオンチDNAにもめげず、高校を卒業したあとは、CD-Rに盤面印刷する凝りようだった。


爆発的に流行ったポケベルがPHS、ケータイへと移り変わると、呼び出し音の着メロが新たな流行を生み出した。


「今度の新機種は16和音らしい」と、着メロ音の良さがケータイの売りだった。


奥田民生、氷室京介、布袋寅泰、hide、日本のバンドブームを牽引してきたメンバーがソロとして第二ステージへ進む中、インパクトを見せたのが、ザ・イエローモンキーだ。


ヴィジュアル系と括られるバンドが大量進出してくる前夜、イエモンは『太陽が燃えている』で全国的知名度を手にし、1996年『SPARK』で文字通りスパークした。


また、デビュー当初「女版ブルーハーツ」とも言われたジュディー&マリーと『めちゃイケ』の相性は抜群で、新しい時代が始まっていくワクワク感を、『Radio』を始めとするジュディマリの曲が彩った。


『HEY!〜』でのシャ乱Qとウルフルズの喧嘩も盛り上がったけど、このあとつんく♂が令和まで続くアイドルを輩出することになるとは、この頃誰も思いもしなかった。きっと本人も。


そんな中、僕の耳を奪ったのは、深夜テレビのCMから聴こえてきた荒々しい叫び声だ。


「ゲッ! タッ! ルーシー! ゲッタッルーシー!!」


当時のJ-POPシーンではあまり聴いたことのない響きを持っていたミッシェル・ガン・エレファントは、均一化されていくヒットチャートに殴り込みをかけるように現れた。


6枚目のシングル『バードメン』を聴いたとき、はっきりと自分が虜になるのが分かった。


ブルーハーツは小三から刻み込まれた僕の血肉だったけど、高校生になり洋楽に傾倒し始めていた僕を、ミッシェルはストレートに撃ち抜いた。


僕の高校生活は、イエローモンキーとミッシェルに挟まれた3年間となった。この両バンドを輩出したディレクターが同じ人だったことはのちに知った。


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「お笑い芸人が麻薬に手を出さないのは、笑わせる快感以上のものはないからだ」


と誰かが言っていた。


お笑いもまた、聞く者全ての感情を撃ち抜く魔法だ。


そんな魔法に包まれながら、僕は軍団と共に3年間笑い尽くした。


卒業式の日、校門を出たあと「これより楽しい3年間はもうこない」と僕は口にした。


未来に幻滅していたのではなく、過去と現在を冷静に分析することができた。


断続的にはあっても、これだけ毎日笑い続けることができる日々はこの先絶対来ない。そう確信できるほどに笑った。


軍団といるときだけは、この高校を舞台に全ての殻を剥ぐことができた。中学のゴール下コミュニティを学年全体でやれた、そんな奇跡のような3年間だけで十分だった。


もう新たに友達を作る必要もない。


あとは自分の夢を叶えにいくだけだ。


軍団は、大学へ進学するものと浪人するもので分かれた。僕は両親に許可を得て、高田馬場にある音楽専門学校に進学した。


父は、大学に行かず音楽の道に進もうとする僕を「まあ…うちはサラリーマン一家だからなあ。一人くらいは…」と珍しく寛容な姿勢だった。いつもエンタメに触れ、文化祭で歌う僕を見て、諦めていたのかもしれない。


入学した専門学校は小さなビル校舎が高田馬場に点在していて、1時間目はこのビルの3階、2時間目はあっちのビルの5階と、同じクラスの面々と移動しながら授業を受ける。


僕が入ったボーカル科は、1クラス5人で、学年で全15クラス。


A-1からA-5、B-6からB-10、C-11からC-15と、実力で振り分けられる。


僕はA-4で全体的に見れば上のグループだけど、同じクラスの連中が悔しいほど上手かった。


そして、上のクラスと一緒になると、さらに圧倒された。


「奴らは所詮カラオケ上手。俺が目指してるのはシンガーソングライターであり、上辺の歌唱力より表現力」


そんな心の言い訳を携帯していないと、まともに立っていられないほどだった。


誰とカラオケに行っても制圧してきた僕がまるで刃が立たない。全国の歌自慢が集まってくるこの場所で、誰もがそんな風に感じていた。


僕が二年生のときには、一年にEXILEのATUSHIがいたことは卒業後に知った。


この年、そんな僕に追い打ちをかけるように、一人の少女が日本の音楽史を塗り替えた。


1998年12月9日、宇多田ヒカルが『Automatic』でデビュー。


当時15歳の少女が作った歌は、列島を一瞬で埋め尽くした。


エンタメは基本、年上が作ったものから触れていく。


でもいつか必ず、同年代や年下が作ったものにぶん殴られる日が来る。


僕の世代は、小学校低学年でとんねるず、高学年でウッチャンナンチャン、中高でダウンタウンを喰らってきた世代。エンタメの判断基準は、多感な時期に喰らったもので大枠が決まるため、そのあと出てきたナインティナインや、年下のオリエンタルラジオは認めない、笑わない、という人は多かった。


僕が彼らをすぐに好きになったのは、小学生の頃からパペポTVの上岡龍太郎の話に傾倒し、高校生でやすきよやエンタツアチャコに触れていたから、とんねるず、ウンナン、ダウンタウンもまた、「子ども騙しの学芸会レベル」と揶揄されてきた歴史を知っていたからだ。


僕はお笑い芸人を目指していたわけではなかったし、認める認めないより、面白いか面白くないかだけで捉えることができたけど、ミュージシャンとなると話は別。


音楽もまた、年上、年下、認める認めない概念が存在する。


この頃頭角を顕した椎名林檎、MISIA、Dragon Ashの登場もまた、宇多田ヒカルという新時代感を後押しするように、強力なインパクトを持っていた。


特にDragon Ashは、それまで売れ線だった「分かりやすさ」や「キャッチーさ」とはかけ離れたヒップホップ音楽を、見事に日本人が好む新しいスタイルに昇華させてみせた。


スチャダラパーやEAST END×YURIらによる、飛び道具的ニュアンスとしてしかラップを知らなかった当時のキッズたちは、フロントマンの降谷建志の容姿やセンスも含め、一気に感化された。そして、それを良く思わぬヒップホップガチ勢の怒りが、水面下で醸造されていく。


降谷建志、椎名林檎、MISIAはみんな僕の一つ上だったから、何かを教わる対象としてギリギリ見ることはできたけど、3つ下の宇多田ヒカルの登場は、僕の年上年下一人脳内論争を、強制的に終結させた。高校球児が年下になったときに襲ってくる焦燥感とは次元が違う。


宇多田ヒカルは、それ以前の音楽を旧式に見せてしまう力があった。のちに小室哲哉は、「宇多田ヒカルの登場により自分は終わった」と語った。

 

どこにも勝ち筋を見出すことができないほどに、僕は1いちリスナーとして、彼女の音楽に魅了された。


時代の変わり目を示すには、あまりにも分かりやすい音だった。

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