第17話 いろんなことを諦めて言い訳ばっかりうまくなり
小室ミュージック全盛の90年代中期にインパクトを見せたのは、ザ・イエローモンキーだ。
ヴィジュアル系と呼ばれるバンドが大量進出してくる前夜、イエモンは『太陽が燃えている』で全国的知名度を手にし、1996年『SPARK』で文字通りスパークした。
奥田民生、布袋寅泰、かつて隆盛を誇ったレジェンド・バンドがソロとなって第二ステージへ進む中、ポップスを上手く取り入れたロック・バンドが次々と進出してきた。ジュディマリ、シャ乱Q、ウルフルズ。エレファントカシマシはまだ苦悩中。
そんな中、深夜テレビのCMから聴こえてきた枯れた叫び声に、僕は耳を奪われた。
「ゲッ!タッ!ルーシー!ゲッタッルーシー!!」
ギターの音、この声。当時のJ-POPシーンではあまり聴いたことのない響きだった。
ミッシェル・ガン・エレファントだ。
カラオケブーム全盛の90年代は、みんなでカラオケで盛り上がれる曲がヒットしやかった。音楽は文化の中心に鎮座し、たくさんのCDを持っていることがカッコいいという概念さえあった。認知させるにはドラマ主題歌、CMタイアップ、テレビだ。そのため、音楽メーカーはそんな曲を流通させるべく日夜奔走し、テレビの枠を奪い合いながらCDを記録的に売り続けた。そうして均一化されていったヒットチャートに殴り込みをかけるように現れたのがミッシェルだった。
6枚目のシングル『バードメン』を聴いたとき、自分が虜になるのがはっきりと分かった。ブルーハーツは小二から刻み込まれた僕の血肉と化していたが、洋楽に傾倒し始めていた高校生の僕を、ミッシェルはストレートに撃ち抜いた。
この1998年は、日本でもっともCDが売れた年だ。音楽バブルのピークであり、以降緩やかに衰退を見せていく。
小室ブランドにも陰りが見え始めたこの年は、ホスト崩れ男子に街は覆われた。ヴィジュアル系バンドブームの影響から「キレイめ」と呼ばれるファッションが流行したためだが、僕はミッシェルのモッズスーツに魅了された。
椎名林檎が『幸福論』でデビューし『歌舞伎町の女王』で頭角を表し、Dragon Ashが『陽はまたのぼりくりかえす』が収録されている『Buzz Songs』でJ-POPリスナーの耳にヒップホップの吐息を吹きかけ、ミッシェルが『G.W.D』でがなり散らし『スモーキン・ビリー』でヴィジュアル旋風に風穴を開けた。白で埋め尽くされそうになると、黒でカウンターを撃つものが現れる。
僕の高校生活はイエローモンキーとミッシェルに挟まれた3年間だったが、この両バンドを輩出したディレクターが同じ人だったことはのちに知った。
「お笑い芸人が麻薬に手を出さないのは、笑わせる快感以上のものはないからだ」
と誰かが言っていた。お笑いもまた、聞く者全ての感情を撃ち抜く魔法だ。そんな魔法に包まれながら、僕は軍団と共に3年間笑い尽くした。
卒業式の日、校門を出たあと「これより楽しい3年間はもうこない」と僕は口にした。
未来に幻滅していたのではなく、過去と現在を冷静に分析することができた。断続的にはあっても、これだけ毎日笑い続けることができる期間というのは、この先絶対来ないだろうという確信があった。それくらい笑った。
軍団といるときだけは、この高校を舞台に全ての殻を剥ぐことができた。中学のゴール下コミュニティを学年全体でやれた、そんな奇跡のような3年間だけで十分だった。もう新たに友達を作る必要もない。あとは自分の夢を叶えにいくだけだ。
軍団は、大学へ進学するものと浪人するもので分かれたが、僕は両親に許可を得て、高田馬場にある音楽専門学校に入学した。
父は、大学に行かず音楽の道に進もうとする僕を「まあ…うちはサラリーマン一家だからなあ。一人くらいは…」と珍しく寛容な姿勢だった。いつもエンタメに触れ、文化祭で歌う僕を見て諦めていたのかもしれない。
専門学校は一つの大きな校舎があるわけではなく、小さなビル校舎が高田馬場に点在していて、1時間目はこのビルの3階、2時間目はあっちのビルの5階と、同じクラスの面々と移動しながら授業を受ける。
僕が入ったボーカル科は1クラス5人で、学年で15クラスある。A-1からA-5、B-6からB-10、C-11からC-15と実力で振り分けられる。
僕はA-4で、全体的に見れば上のグループのクラスだが、同じクラスの連中が悔しいほど上手かった。自分より上のクラスの連中と一緒になったときは、さらに圧倒された。キーのレンジが広い。声量も違う。見た目もめちゃくちゃいい。
「まあ所詮奴らはカラオケ上手。俺が目指してるのはシンガーソングライターであり、上辺の歌唱力より表現力だ」
そんな心の言い訳を携帯していないと、まともに立っていられないほどだった。
誰とカラオケに行っても制圧してきた僕がまるで刃が立たない。全国の歌自慢が集まってくるこの場所で、誰もがそんな風に感じていた。僕が二年生のときには、一年にEXILEのATUSHIがいたことは卒業後に知った。
そんな僕に追い打ちをかけるように、この年、一人の少女が日本の音楽史を塗り替える。
1998年12月9日、宇多田ヒカルが『Automatic』でデビュー。
当時15歳の少女が作った歌は、列島を一瞬で埋め尽くした。
エンタメは基本、年上が作ったものから触れていく。4歳児が2歳児の作品に触れることはそうないため当然だが、いつか必ず、同年代や年下が作ったものにぶん殴られる日が来る。
エンタメの良し悪しは、影響を受けやすい多感な時期に喰らったもので決まりやすい。僕の世代は小学生でとんねるず、ウッチャンナンチャン、中高でダウンタウンを喰らった世代だが、そのあと出てくる自分より年下の芸は基本認めない、笑わない、という人は多い。とんねるずに比べれば云々…と始まる。
ナインティナインは当時ダウンタウンの後釜のような位置付けで捉えられていたため、僕らの世代、つまりナインティナインより年下の世代でさえ、あんなのはダウンタウンのチンカスだと、松っちゃんのようなことを言っていた人は多かった。
僕らの年代より下で、早くに出てきたオリエンタルラジオも、ナインティナインも、僕は好きだった。なぜなら、小学生から上岡龍太郎の話に傾倒し、高校生でやすきよやエンタツアチャコなど過去の演芸に触れていると、“そういうものだ”という俯瞰視ができたからだ。
つまり、とんねるず、ウンナン、ダウンタウンも、BIG3直撃世代や、さらにその上の世代からすれば、所詮子ども騙しの学芸会レベルと揶揄されてきた経緯があるのだ。
僕はお笑い芸人を目指していたわけではなかったし、認める認めないより、面白いか面白くないかだけでお笑いは捉えていたが、ミュージシャンとなると話は別だ。
音楽もまた、上の世代と下の世代における認める認めないの概念が、お笑い芸人の話同様存在する。しかし、テレビという限られた枠の奪い合いでもなく、セールス枚数で全ての良し悪しが判断されるわけでもない音楽の世界においては、年上・年下概念など、より関係ないと頭では思っていたが、Dragon Ashや椎名林檎の活躍を見て焦燥感を覚えたとき、やはり意識しているのだと自覚した。彼らは僕の一つ年上だから、ギリギリ彼らの活躍を客観視することはできたが、3つ下の宇多田ヒカルの登場は、僕の年上年下一人脳内論争を強制的に終結させた。高校球児が年下になったときに襲ってくる焦燥感とは次元が違った。
90年代、音楽バブルの波に乗ってレコード会社は多くのミュージシャンをデビューさせた。売れた人たちの何倍も、売れずに消えていった人たちがいる。こんな奴すぐ消える、こいつは本物、そんは会話は学校でもよく囁かれたが、予言者でなくても、宇多田ヒカルが活躍し続ける未来は、誰もが容易に想像できた。
一発屋とも思えなかったし、なにより、宇多田ヒカルの登場によりそれ以前の音楽を旧式に見せてしまう力があった。のちに小室哲哉は、「宇多田ヒカルの登場によって自分は終わった」と語った。
どこにも勝ち筋を見出すことができないほどに僕は
それは、時代の変わり目を示すにはあまりにも分かりやすい音で、風向きが明らかに変わった瞬間だった。
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