第26話100億ものうそをついたら今よりも立派になれるかな

兄の結婚式の日、僕はイボ痔だった。


ライブに出ていることだけが、夢へ向かって努力している自分への免罪符だったが、機械的なその行動力は、成長ではなく停滞を意味していた。


なにか環境を変えてみようと四谷天窓にも出演してみたが、変わらなかった。環境を変えることで意固地な自分が強制的に変化させられることもあるだろうが、僕の臆病な心は簡単には変わらなかった。


もう何度ライブをしただろうか。反応はなにもない。手応えもない。人前で歌う多少の度胸はついたかもしれないが、慣れただけ。それより先へ行こうとする度胸ではなく、マイナスへ転じる可能性にだけ過敏な、現状維持的な慣れ。だから未だにアンケートの一つも取りに行けない。ストリートも怖い。


だから僕は、今でも一人でやっている路上アーティストを見かけると、可能な限り立ち止まって、可能な限りの笑顔を送る。あの文化祭のPAさんのように、演者は必ずその気配に気づく。ああ、ここで歌っていていいんだ、という安堵感を得られるはずだ。路上で歌っている人たちはみんな、上手かろうと下手だろうと、それだけで、僕より先に行けた人たちだ。


四谷天窓は、渋谷アピアに比べ若い女性客が多かった。


歌っていると、よくかわいい子を見つける。でも俺の歌には退屈そうだ。どうやらみんな他の出演者のファンのようだ。ライブが終わるとみんなそこへ群がる。当時はゆずやコブクロが流行していたから、それ系統のフォークユニットが多かった。甘ったるい歌歌いやがって馬鹿野郎がと僻む自分にも辟易しながら、僕は一人で会場をあとにする。


まるでドラマのワンシーンのような勝者と敗者の分かりやすい構図になる。しかしこれはドラマではない。ドラマなら「人気もない目立たぬ僕」をカメラが悲観的に捉え、悲しげなBGMが流れて情にも訴えられるだろうが、「目立たぬ僕」は現実世界において、文字通り誰にも見られることはない。


今日はこのままエリの家に行こう。


ライブの帰り、ギターが人にぶつかってしまい、絡まれたことがあった。いつもなら平謝りするところだが、そのときはむしゃくしゃしていたこともあって、柄にもなく僕は、怖そうなその二人組に啖呵を切ってしまった。


半グレ風の見た目の彼らに、僕は分かりやすくボコボコにされた。そのとき介抱してくれたのがエリだった。なんて物語も当然存在しない。


「報われない僕」を描いたドラマや映画も嫌いだ。たいていヒロインが存在すからだ。それだけで報われてるじゃないか。贅沢な言うな。全然哀れじゃない。


映画やドラマは、面白くするために、客を呼ぶためにヒロインという存在を捏造する。


ふさけるな。そんなのどこがエンタメだ。助長しやがって。冗長しやがって。


ライブを初めて人前でやったのが高校の文化祭、その次が兄の結婚式だ。僕が20歳のとき、兄は24歳で同級生と結婚した。


兄の影響で聴き始めたこともあり、当日参列する兄の友人連中も好きだということで、僕は長渕剛の『乾杯』と『俺らの家まで』の二曲をやることになった。


鷺谷家の親族も大集合という中での出演だったが、当時専門学校に通っていた僕にすれば、緩い現場だった。同級生たちの「お前なんかより絶対俺の方が上手い」という突き刺す視線を受けることなく、新郎の弟という注目のアドバンテージの中出ていくのだから。


僕はそれに甘えることなく、これがプロになる男の実力だと、兄を祝福する思いなんかより、目に物を見せてやるという気構えだった。


その意気込みが祟ってか、式の3日前、急にケツに違和感が出た。痛いような痒いような。なにをしていても常に気になる。じんじんしたり、ピリピリしたり。


痔だ。


父がよく「また痔が出た」とか言っていた。風呂で石鹸を使って押し込むとかよく言っていた。


遺伝しやがった。20歳で。


早すぎないか。しかもこのタイミングで痔デビュー。


すぐにドラッグストアへ行って薬を探した。なにせ式が3日後だ。こんな状態で歌えるか。


「なにかお探しですか」

「ああ、なんかあの、お尻の、痔ですかね、なんか痛いって言ってて、、、、

「どういう痔ですか? 病院には行きました?」

「いや、まだ行ってはいないみたい、、、です。なんか痛いって言ってて、、、、

「症状としては? 血が出るとか」

「血とかは出てないみたい、、、です。なんか痛いって言ってて」


あくまで誰かに頼まれて来たテイを死守しながら薬剤師と会話し、とある塗り薬を買った。しかしこれが一向に効かなかった。僕は遺伝への抗議の気持ちを込めて、父に症状を訴えた。


「レンシンだ。レンシンが一発だ」


家から車で10分走らせたところに、個人でやっている小さな漢方薬局があった。そこにある“レンシン”という飲み薬で一発で治ると父は言った。父は痔と向き合って数十年だから、その言葉には説得力があった。


「一発だ」


翌日行ってみると、シャッターが降りていた。なにか書かれている張り紙を確認した僕は、近くのスーパーに車を停めて店に向かった。


「しばらくお休みします」


張り紙にはそう書かれていた。


ふざけるな。こっちは明後日結婚式で歌うんだ。この状態で今二曲続けて座って歌えるのか。歌うとケツにも力が入って余計痛いんだ。


「すいません、あの、ここっていつ再開するんですかね」


普段知らない人に話しかけることなどできない僕が、痔の痛みと焦りから隣の花屋さんに声をかけた。


「一ヶ月前くらいかしら。旦那さん具合悪くなっちゃったみたいでねえ。そんな大したことじゃないからって、しばらく奥様が店に立ってたんだけど、どうなのかしらねえ」


なんでこのタイミングで。今すぐシャッター開けてレンシン売れ。半月分で6,000円もしやがるクソ高い漢方が。それでもこっちは決死の思いで金を持って来たんだ。中にあるんだろレンシン。だいたい漢方薬局やってるくせに身体悪くなりやがって、やめちまえこのクソジジイ。


痔の痛みと焦りから、ひどい罵詈雑言が頭に浮かんだ。


結局、ドラッグストアで買った全く効かない薬を塗り続け、当日を迎えた。痔への不安から全く眠れず、いつもに増してケツが痛い。乾杯がシャンパン。一口飲む。ほどなくしてまたケツがヒリヒリしてくる。睡眠不足、お酒、全て痔には良くない。


本来、人生で大事な1ページとなる華やかな兄の結婚式の光景全てが、痔との戦いでずっとぼんやり映った。修学旅行の朝のコーヒーを思い出した。なんでこんなときに限って。


「今日はなんと、新郎の弟である政明さまより、素敵なお歌のプレゼントがございます」


丁寧すぎる女性司会者の声にも腹が立ってくるほど、痔は爆発寸前だった。これは確実にいつも以上の痛みだ。この領域はまだ経験したことがないという痛みだ。赤い。多分今ケツが赤い。ケツというか穴の付近が多分赤い。腫れている感じ。じんじんじんじんじん。じーん、じーん、じーん。痛みのテンポが早くなったり、ゆっくりになったりする。変化をつけるな。一定で来い。慣れようがない。


「いやーん、まーちゃん、頑張ってほら」


いつも優しい叔母さんにも腹が立つ。もう全てが敵に見えるほど辛い。お前らどいつもこいつも幸せそうな顔しやがって。今ここで脱いでケツの穴見せて全部終わりにしてやろうか。きっと引くほど赤くなってるに違いない。なんかオデキみたいなのが穴の中にあるはずだ。身体の奥底から響いてくるようなムズ痒い痛み。なにを思考するにも、その強い痛みは僕の脳を捉えて離さない。


じんじんする痛みに歯を食いしばりながら、ギターを持ってステージへ向かう。歩き方が不自然にならないよう、自然を装う。それが逆に不自然になっていないか不安になる。みんなこっちを見ている。普段どんな歩き方だっけ。「自然に生きてるってわかるなんて、何て不自然なんだろう」と吉田拓郎は歌った。


盛大な拍手で迎えられる中、僕は引きつった表情のまま譜面台とマイクがセットされた椅子に座った。傍から見れば緊張しているように見えるだろうが、今はそれで構わない。


「どうも、鷺谷家の問題児、鷺谷政明です」


痛みから僕はぶっきらぼうにそう挨拶すると、


「もーんだーいじ!」


と兄の同級生の誰かが声を上げ、会場がドッと笑いに包まれた。兄は日本体育大学出身の体育会系だから、同級生も元気がいい。いかにも長渕が好きそうだ。本来ならいいムードになったと捉えるべきところだが、このときばかりは素直に聞けなかった。誰だ今叫んだやつ、クラスのひょうきんもの風情がこのやろう。誰が問題痔だ。


「兄が好きだった、長渕剛の歌を歌います」


祝福の言葉もなく、僕は淡々と演奏を始めた。痛いんだからしょうがない。歌い始めれば痛みを忘れるかもという淡い期待も叶わなかった。やつはそんなに甘くない。ちゃんと痛い。ちゃんといる。


「知ってる? 俺らの家まで」


文化祭のとき同様、例によってハーモニカからその歌をはじめ、『乾杯』で締めると、盛大な拍手の中僕は無事席に戻った。


「まーちゃん! 良かったよー!」


叔母さんたちにそう声をかけられながら、僕はギターをスタッフに預け、自分の席に座ると、痛みが収まり始めた。


それまでは全神経が穴に全集中していたため常に一喜一憂していたが、無事に問題なく歌いきったことで、もう痛くなっても構わないという安堵感から少し痛みが緩和されたように思えた。


後日、漢方薬局の近くを通りかかると、シャッターが開いているのを見かけた。すぐに店内に飛び込むと、すっかり体調も良くなったと思われるご主人と奥さんが2人で店に立っていた。もう分かったからと言いたくなるほどにレンシンの説明を受け、僕は家に帰ってレンシンをさっそく飲んでみた。


本当に一発だった。

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