第37話 48億の個人的な憂鬱 9
おばあちゃんが旅立ち、年が明け、3月に父は定年退職を迎えた。
花束を抱えて帰ってきた父を労い、ささやかなホーム・パーティーを開いた。
父は、「そのうち家をリフォームしよう」と言った。
この家が出来て越してきたのは僕が中2のときだから、12年目。
リフォームは1階を中心に、リビングや玄関を広くし、フローリングや壁を新しく張り替える。キッチンやトイレなど、水回りも一新することになった。
家の工事が進む5月、父にとっては初となる孫が産まれた。兄夫婦はなかなか子宝に恵まれなかったが、元気な女の子を出産した。
父も大いに喜んだが、女の子を育てたことがないから「オムツを変えるときあれがついてないから、なんだかドキッとするな」と変なことを言っていた。
団塊の世代は、家でじっとしていることができないらしい。
「そろそろなにか仕事を始めるか」と父は言い出した。孫もできて、しばらくゆっくりしていればいいのに。
父は畑仕事を選んだ。昔から、畑の一区画を借りて自家農園をするほど土いじりが好きな人だったから、驚きはなかった。
ある日の夜、寝ていたはずの父がやつれた顔をして二階から降りてきた。
「なんか全身に力が入らなくなっちゃって」
と言いながらソファにうつ伏せになる父を、リビングにいた僕と母はマッサージした。
「仕事も始めるんでしょ?大丈夫なん」
「んー……」
「明日のゴルフもやめとけば?」
「んー……。まあ……とりあえず大丈夫そうだ」
と言って二階に戻った。
翌日父は、退屈そうにリビングで過ごしていた。今日はゴルフも行かず、酒も飲まず家にいるとのこと。
そこから2週間後の初出勤日、体調もすっかり良くなった父は、久しぶりに母が作ったお弁当を持ち、出かけていった。
この日はリフォームの最終日で、父が帰ってくる頃には床を保護していたカバーが全面外され、新しいフローリングとご対面だ。
最後の区切りと決めた、僕のアルバムの完成も近づいてきていた。
楽曲は弾き語りスタイルのものが中心だが、ギターやコーラスを重ねるような曲も作った。
いよいよなにかが終わる。
これを作り終えたら、もう二度と曲を書いたり、ギターを弾いたり、歌うこともなくなるんだろう。
この中の一曲が、今を引っくり返してくれないだろうか。
新しい曲ができるたびに、そんな淡い思いが湧き起こった。そして録音したものを聴いて、うなだれる。
近づいてくる現実から逃走するように、煮詰まると僕はすぐにパチンコ屋へ行っていた。
母から電話があった。
熱中症かなにか分からないが、父が初日早々畑で倒れて病院に運ばれたらしいから、帰ってきてとのことだった。
僕はすぐに店を出て家に戻り、そのまま母を乗せ病院へ向かった。
父が運ばれた病院は、駐車場が入口から少し離れたところにあったので、入口のロータリーで先に母を降ろした。
駐車場に車を停めた僕は病院へ向かい、受付で場所を聞いて病室へ向かった。
ドアを開けると母が飛び込んで来て
「お父さん死んじゃった!」
と泣きながら僕に抱きついてきた。
え?
その小さな部屋はストレッチャーが一台あり、その上に父は仰向けで寝ていた。
申し訳なさそうな顔をした3人の医師が、父を見守るように立っていて、奥から陽が差し込んでいた。その光は、ポカンと口を開けた父の顔を照らしていた。
眼鏡にヒビが入り、鼻のあたりに血が滲んでいる。
「……これ、もうどうにもならないんですか」
「はい……あの、」
医師はその後なにかを説明してくれたが、頭に入ってこなかった。
父の遺体を指さして「これ」と言っている自分だけは認識できた。
目の前にいる父は、間違いなく僕の父だ。
でも出ていくとき元気で。今日ようやくリフォームが終わってフローリングが。心臓マッサージとかは? そういえばこの間力が入らなくなったとか。この間孫が産まれたばっかりで。半年前おばちゃんが亡くなって。え、手術とか。
え?
脳と身体と言葉がまとまらない。声が出ない。泣き続ける母。
「人はいつか死ぬ」ということを痛感したばかりで。
なにこれ。
畑で作業中、父は突然倒れたという。眼鏡はそのとき割れたのだろう。
心筋梗塞だった。
地下の霊安室に父を運ぶ間、僕は親族に電話をすべく駐車場に出た。
今、なにをするのが正解かはわからない。このあとは葬儀の段取りだ。おばあちゃんのときもそうだった。
でも、全く頭の整理がついていない。この状態で父の死を伝えていくのか。しかしこの仕事を母にやらせるわけにもいかない。
僕は一件一件、ケータイの「親族フォルダ」から、電話をかけていった。
父の死を言語化し、声に出す。
その自分の声が耳から入ってくる。
それを繰り返していくうちに、父の死を頭が理解していく。
「なんで!? この間来たばっかだよ!? 嘘って言ってよ! まあちゃん!」
エミコさんが電話の向こうで、かなり取り乱している様子が分かった。
夫のテラダさんが電話を代わり、
「ごめんまーくん。ちょっとエミコ動転しちゃってるから。それで……」
冷静に僕に話す向こうで、エミコさんの泣き声がまだ聞こえていた。
エミコさんの真っ直ぐな号泣で、僕は父の死を完全に理解した。
その電話を切ったあと、信じられないほどの涙が溢れ出た。
僕はそのまま駐車場にうずくまり、人目をはばからずひどい嗚咽とともに号泣した。
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