第41話 誰かの傲慢のせいで俺は死にたくはないんだ

「今度新しくできる会社に入るんだけど、一緒に行かない?」


イベント会社に入る前、CDショップ時代の同僚のナガセに誘われたことがあった。


店によく営業に来ていたメーカーの人が、2006年にできる新しい会社に転職にすることになり、ナガセも誘われ入社することになったという。


そこは、映像と音楽の制作会社で興味はあったが、それまでずっとミュージシャンを目指してきて、急に裏方に回る気になれず僕は断った。


その誘いから一年の月日が経とうとしていた頃だった。


「その後イベント会社はどう? 今、また人増やしたいって言ってて、サギちゃんそろそろどうかなと」


父の一回忌にすら行けないこの会社に長くいるべきではないと考え始めていた。しかし、ようやく仕事のイロハを覚えてきたところ。B先輩から学べることも多い。


上司を選ぶことはできない。A先輩の下で殴られないよう務めるだけの実りなき日々の中、僕は暇さえあればB先輩を監視するように追いかけ、話しかけては勝手に、、、吸収していく日々でもあった。


しかし、もうダメだと決心したのは“金”だった。


「建て替えておけ」とA先輩に言われることが多くなっていた。仮払い事前申請を出すのを忘れ、今俺持ち合わせがないから、お前が出しておけと言われ僕が建て替える。それが度重なり、僕は経理の人によく注意されるようになっていた。もちろん、僕が悪いわけではないということは経理の人も分かっていたが、「会社のルールがあるんだから、こういうイレギュラーを繰り返されると困る」といつも愚痴られた。


そのため、ある現場に入る前、僕はA先輩に仮払い申請の確認を促したのだが、案の定殴られて終わった。


「経理の人をうまくネゴすのもお前の仕事だろう!」


この理不尽加減は、とうにラインを越えていた。思えば最初から越えていたのだろう。


僕は経理の人が困る顔を見るのが嫌で、細かい金額はすでに申請しなくなっていた。しかしこのままだと、誰かを巻き込む大事故が起こりそうな気がした。


A先輩に楯突いてみる、会社に配置換えを頼んでみる、本気で考えてはみたが結果があまりにも見えすぎていて、動く気になれなかった僕は、とうとう退職を決心した。


わずか一年での退職。これで僕も正式に落ちこぼれの仲間入りとなる。それまでは若気の至りで音楽を頑張ってたらしいけど、就職したと思ったらわずか一年で退職、結局なにやっても中途半端な人間なんだよね、確定。


ミュージシャンになれなかった時点で、夢を諦めた時点で結果は目に見えていた。日本人初のグラミー賞受賞となる予定だったシンガーソングライターの転落は、どこまでも続く。


退職を心に決めてからは、いつも以上にB先輩の背中を追いかけるようになった。A先輩ほどの鬼畜に出会うこともそうないだろうが、B先輩ほどできる男ともそう出会えないと思った。


専門時代の秋谷先生の言葉を思い出す。盗めるだけ盗んでおけ。落ちこぼれていく中でも、なにか脱出のチャンスが巡ってくるかもしれない。その時に問われるのは、きっとこういう人から得た知見だ。


そんな露骨な僕の態度に、A先輩の機嫌はますます悪くなることとなったが、退職を決心できた僕の心は晴れやかだった。


会社に退職願いを出してからは、A先輩はおろか、A先輩と懇意の風俗好き代理店野郎からも嫌味メールが届いた。


「まだ一年でしたよね? 当然次は決まっているんですよね? だとしても、一年で辞めてしまうような人が頑張れるとは僕には思えません。厳しいことを言うようですが仕事というのは…」


30代にすれば、一年で辞める26歳は根性なしを絵に書いた格好の標的だった。A先輩の暴力も、この嫌味メールも、全ては愛のムチとされる時代。この人たちも、理不尽な暴力に耐えきて今があるのだろう。だからお前も耐えなければならないのだ。逃げ出すなんてとんでもない。そんな大日本帝国陸軍のような精神は、2000年代初頭まで確実にこの国にはあった。


最終日、挨拶を済ませて会社を出ると、B先輩が外の喫煙所で仕事の電話をしていた。一言挨拶を、と近くで待つ体勢を僕が取ると、B先輩は横目で僕を確認し電話を切った。


「もう帰んのか」

「はい。色々とお世話なりました。たった一年で逃げるような…」

「いいよそういうの。次は多分大丈夫だろお前は」

「はい。…えっ?」

「いろいろ悪かったな。頑張れよ鷺谷」


そう言うと僕の肩をポンと叩き、B先輩は携帯をいじりながら階段を上がっていった。


次は大丈夫だろ お前は

悪かったな


その意味が分かるのは、次の職場で仕事を始め、一年が経つ頃だった。

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