第9話 あの鼓動をもう一度

 目覚ましのけたたましい騒音を止め、シゲは起床した。まだ復帰二日目だ。布団から抜け出すには時間がかかった。着替えを済ませるとあくびをして自室を出る。キッチンでは母親の静代しずよが朝食を作っていた。

 シゲは目を丸くする。


「あれ? 母さん。いつ帰ってきたの?」


 研究者である静代は基本帰りが遅い。帰って来ないこともしばしばだ。だから昨日も研究室での仕事が立て込んでいるのだろうとシゲは思っていた。


「おはよう、シゲ。別に昨日はそんなに遅くじゃないわ。あなたが早く寝ただけ……しばらく休んでたから疲れてたのね。いつも夜更かしばっかりするんだから、いつもそのくらいの時間で寝なさい」

「あー、そういえばそうだっけ?」


 言われてみれば、シゲは昨日いつ寝たのか覚えていない。帰ってきてから適当に冷蔵庫の中を漁ってシャワーを浴びたまでは覚えている。その後の記憶がない。ベットに直行したのだろうか。

 シゲが記憶を思い返しているうちに、気づけばテーブルに朝食が並べ終わっていた。淹れたてのコーヒーのいい香りがする。コーンスープに、パンの上にトマトソースとチーズをのせて焼いたピザ風トースト。サラダとヨーグルトとご機嫌なラインナップだった。


「ほら、早くご飯食べちゃいなさい」

「……ん。いただきます」


 手を会わせてシゲは黙々と食べ始める。朝は小食派のシゲには量が多い。母親のいないときはもっぱらヨーグルトだけか、そこにせいぜいフレークである。だが出されたものを残すのも気が引けるというもの。シゲは無理矢理胃に詰め込む。


 ふとテレビのニュースが気になって、ちらと確認した。するとアメリカのいかにもマッドサイエンティストの風体をした博士が映っている。名前をブラントム博士。なんでも度々、倫理的にアウトな部分に踏み込んだ実験をしているようでその手では有名らしい。

 興味を惹かれた理由は、今回はそれが臓器移植だったからである。人間から動物に移植する話は聞いたことあるが、彼はどうやら人間から動物に移植を試みたというのだから驚きだった。


「はー。なんかすごいことしているね。母さんとこの研究所って確か細胞関係だったよね。こういうことやってるの?」

「馬鹿言わないの。異種間臓器移植なんて別も別物よ。うちは臓器培養。全く別のアプローチよ」

「ふーん。同じ治療目的でも随分違うんだね……そういえば母さんって春日井かすがい先生とできてんの?」


 シゲが唐突に問いを投げかけると、静代は見るからに嫌そうな顔をする。ここまで露骨に嫌悪感を示す母親をシゲは始めて見たかもしれない。


「何よ、いきなり。どういう風の吹き回し?」

「いや医療関係で話してたら春日井先生が母さんのこと名前で呼んでたの思いだしてさ。そうなのかなーって」

「ちっ……やめて頂戴。冗談でも言わないで」

「あ、うん。ごめん」


 舌打ちまでするとは思わず、シゲは困惑する。

 もしかして春日井先生に熱烈にアプローチされて辟易しているとか……は、ないか。ちょっと想像できないしな。


 シゲはあれこれと頭を悩ませるが答えは出ない。そんな息子の様子に静代はため息をついて声を掛けた。


「……仕事でたまに会う機会があるだけよ。母さん、あの人嫌いなの。こんなことどうでもいいのだから、あんたは早く学校行きなさい。遅刻するわよ」

「うわ本当だ! もうちょっと早く言ってよ!」


 シゲが時計を見れば、すでに時計の針はとっくに八時を回っていた。まだ歯も磨いていなければ髪も整えていない。急いで洗面台に向かって寝ぐせだけ直すとシゲは玄関へと向かおうとするが、一度リビングに顔を出した。


「母さん。いってきます」

「ん。いってらっしゃい」


 手を振って静代は息子を見送る。どたどたと家を後にした息子に、ぽつりと声を漏らした。


「……心臓のドナー提供してから、よく笑うようになったわね」


 静代はコップに残ったコーヒーを飲み干す。しばらく息子の去っていったドアを見つめていた。



 * * * * * *



「……ぜぇ、はぁ……ち、遅刻しましたぁ!」

小堂こどう!? おま、お前、病み上がりが走って登校するんじゃない!」


 シゲは息を切らして教室に飛び込んだ。担任の新井あらいが今にも死にそうな呼吸をするシゲに狼狽する。自身の体力の無さと心肺機能の低下をすっかり忘れていたシゲはうっかり以前の調子で走った結果がこの様であった。へばって何度立ち止まったかわからない。

 病み上がりが全力で走って登校してきたことにクラスメイト達は心配を通り越してドン引きしている。唯一、友人のタケだけがやれやれと首を振っていた。


「へ、へへ……すいま、うぇっ、ごほ! げほ、げは!」

「おい大丈夫か? 倒れるなよ? 怒られるの私なんだからな……?」

「はぁ、だ、大丈夫で……ふぅ」

「ああもう、喋らなくていい! さっさと席に座りなさい」


 冷や汗を垂らして新井がシゲを席へと促す。シゲの背後で、あれ大丈夫だよな? と新井の焦る声が聞こえる。項垂れたままシゲは席につき、机に突っ伏した。


「大丈夫ですか?」

「……だ、だいじょぶ。気に、しないで」

「無茶言いますね、。病み上がりなのに無茶し過ぎよ」

「は、はは。そうだ……ね?」


 シゲは違和感を覚えた。

 自分のことをシゲと呼ぶのは、クラスメイトじゃタケくらいだ。あとシゲっちと呼ぶのが一人。だがシゲと呼ぶのは……聞き覚えのある透き通った声だ。シゲはばっと顔を上げた。


 風にたなびく長い黒髪、対極の白磁の肌。長いまつ毛にまっすぐ伸ばした背筋、凛とした佇まい。


「ふふ。またお会いしましたね」


 深窓の令嬢、シオンが隣の席でシゲに微笑みかけていた。

 酸素を取り込もうと酷使していた心臓がさらにその鼓動を上げていく。そのままシゲの視界は白んでいった。そのままずるりと椅子から転げ落ちる。


「シ、オん……?」

「え、ちょっと? シゲ!?」

「きゃあー!? 先生、シゲっち倒れた!!」

「馬鹿野郎! 私が叱られるって言ってのによぉー!?」


 倒れたシゲにクラス中が阿鼻叫喚に陥った。シゲはクラスのいかつい男子に担がれて保健室へと運ばれる。その背でシゲは満足げに笑っていたらしい。

 シゲはまたシオンと話せることが嬉しかった。


 ……ただ倒れたせいで安静のために自宅に返されたのは幸か不幸か。朝から家に戻ってきた息子に、静代はやれやれと呆れていた。

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