第3話 人は恋をする生き物で その2

 病床から抜け出し医師に見つかりそうになった小堂重こどう しげは、とっさに隠れた病室で一人の少女と出会った。

 少女は本を読み耽りどこか浮世離れした空気を纏っている。溢れんばかりの気品と凛とした佇まいは、大きな病室一つ貸切なのも相まって、まさしく深窓の令嬢と呼ぶにふさわしかった。


「まだ出ていかないの?」


 名も知らない少女はシゲに問いかける。見惚れていたシゲはその声で現実に引き戻された。そうだ。自分は彼女にとっていきなり朝から病室に押し入ってきた不審者でしかない。


「あ、ああ。うん。そうだね、ごめん。いきなり部屋に入って。その、ちょっと先生に見つかりたくなくてさ」


 ただ部屋を間違えたと言えばいいだけなのに余計なことを言ってしまう。どういうわけかシゲは彼女に嘘をつくことに気が引けていた。嘘はシゲの十八番おはこだというのに。


 さっさと出て行けと言われているんだから、出ていかないと。きびすを返そうとしたシゲに少女は再び声を掛けた。


「……抜け出して来たの?」


 まさか呼び止められるとは思ってもおらず、シゲは努めて笑顔で返事をした。


「う、うん。退屈でさ」

「そう。そうなの。でも顔色も悪いし、戻った方がいいと思うわ。病気は辛いわよね」


 シゲは笑った顔を引きつらせる。何だが大きな勘違いをしていないだろうか。

 顔色が悪いのはシゲにとっては平常運転だ。病気の方はと言えば、病気だったのかもしれない。心臓二つあったことはシゲにとって病気としか言いようがなかった。


「まぁ、病気みたいなものだったけどもう治ったよ。だからこうして自由にしてる」

「あら。自由にって先生に許可はもらってないでしょ?」

「あ、あはは」


 図星だ。ぐうの音もでない。


「でも奇遇ね。私もちょうど治ったところなの。さっき聞いてたでしょ」

「あー……みたいだね。えっと、花子はなこさん?」

「名前で呼ばないで。嫌いなの」


 いきなり嫌いと言われてシゲは膝から崩れ落ちる。


 なぜだ。さっきまであんな和気あいあいと話せていたはずなのに。まさか自分だけが盛り上がっていて彼女が合わせていてくれただけだというのか。おかしいとは思ったんだ。まともに人と会話するなんてことほとんどないのに会話が弾んでいたのは。ああ、もう駄目だ。終わった……。


 少女――花子はいきなり膝をついて項垂れたシゲに首を傾げたが、すぐにどういう状況か理解し弁明した。


「ああ! ごめんなさい! 嫌いって、あなたのことじゃなくて、自分の名前のことだから」

「え、ええ? 本当に? なんだこいつ慣れ慣れしいなとか思わなかったか?」

「大丈夫よ。私の周りは初めて会ったのに名前で呼ぶ人ばかりだから」


 フォローになっていないが。何だが釈然としないとシゲは渋い顔をする。

 しかし、そうか。彼女は名前で呼ばれるのが嫌なのか。皆こぞって馴れ馴れしいというのも居心地が悪そうだと、シゲは案を捻り出す。


「うーん……じゃあ、あだ名とかどうかな?」


 花子はぱちくりとまばたきすると、あははと笑い出した。令嬢らしさに欠ける笑い方だがシゲとしてはこちらの方が好感が持てる。一体、何がそんなにおかしかったのだろうか。


「ふふ。私、あなたの名前も知らないのに。いきなりあだ名?」


 ……そういえばそうだった。自己紹介をしていなかったことにシゲは今更気がつく。


「あー、その。小堂重です、よろしくお願いします」

「あら。どうもご丁寧に。御園みその花子と申します。礼儀正しいのもいいけれど、さっきみたいに話してくれたほうが私も気が楽だわ」

「よかった。俺の敬語、かなり怪しいから」

「そうなの?」

「刑事ドラマとか好きでよく見てたんだけど、そしたら中途半端に覚えちゃって」


 シゲはぼりぼりと頭をかく。決して刑事ドラマだけが原因ではないが、ただの高校生がそんなに頻繁に敬語を使うわけもない。現代は平等という観点が重視されているが、敬語を使う機会がなくなったとも言えるようにも思う。


 対して花子は環境的に敬語をよく使うのだろう。所作や話し方からして教育されていることがよくわかる。病弱そうなのに厳しく指導されたりしたのだろうか。そう思うとシゲはさっき見かけた花子の父親への怒りがふつふつと湧き上がってきてしまう。


「刑事ドラマですか。私も好きですよ」

「え、本当に? 話合わせるためとかじゃなく?」

「私は嘘って嫌いなの。そういうのは社交辞令のときだけで十分」


 逆説的に花子は今の会話は社交辞令とは考えていないということか。

 シゲは何だか頬が緩んでしまう。暇つぶしであったとしても会話相手に選んでもらえていることが嬉しかった。


「本当は俗物だからって遠ざけられてるんだけど、ダメって言われたら見たくなっちゃってハマったの。ほんと、パブロフの犬よね」

「ばぶ……何それ? パグとか犬種の一種?」

「ふふふ。パグだったらかわいいわね」


 会話の知能指数が噛み合ってない気がしてシゲは微妙な顔になる。まぁ、花子が喜んでいるならいいか。


「それであだ名の件なんだけど」

「ええ? 小堂さん、本当にあだ名をつけるの?」


 あまり乗り気じゃない花子に、あだ名は嫌なのかとも思ったがよくよく考えてみれば彼女はお嬢様のようだし病弱そうだから学校も通えていないのかもしれない。あだ名をつけられるのも初めてということだ。だとすると下手なあだ名は付けられない。一度ボケて場を和ませようと思っていたシゲだが、それでは駄目だと考えを改める。


「はな……君が好きなものって何?」

「好きなもの? そうね、刑事ドラマが好きよ」

「ああいや、あだ名に刑事ドラマを使うのはちょっと……」

「ああ。そういうことね」


 口元に手を当てて考える花子に、シゲはなんとなく花子に天然の気があるなとぼんやりと思った。


「改めて考えると難しいわ。えっと……お花、とか」

「いいじゃん。名前にあるから連想しやすいよ。どんな花?」

「ハルジオンとか」

「……何それ?」

「タンポポみたいなイメージって言えばいいかしら」


 やはり知能指数がかみ合っていない。シゲはゴリゴリと知性の敗北を感じていた。

 うーん。ハルジオンね。はるじ? るじお? はおん? うーん。


「あー、じゃあ。シオン。シオンでいこう」

「シオン……! いいわね!」


 そう言って顔をほころばせる花子にシゲはほっと胸を撫で下す。気に入ってくれたようだ。


「じゃああなたは何がいいかしら。どの刑事ドラマから取ろうかしら」


 ……花子にはネーミングセンスがなかったので、そのままシゲと呼んでもらうことになった。

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