第一章 初恋編

第2話 人は恋をする生き物で その1

 蝉の音で埋め尽くされる夏に取り残されて、私はいなくなると思っていた。生まれつき心臓が弱くて入退院を繰り返す日々。限界が来たときも、私は「やっぱり」としか思わなかった。


 死ぬことは怖くない。お母さんは死んだら悲しんでくれると思う。だけどきっと安心するんじゃないかとも思う。


 私に付きっきりでお母さんはお父さんとの間に次の子どもを作らなかった。お父さんにとってお母さんは正妻ではあるけど、数いる女の一人なのに。私だけに構っているべきじゃない。だけどそんなこと私の口から言えなくて。

 お父さんは体裁のために私の治療費を出しているだけとわかっていた。感謝はしているけど素直にお礼をいう気にはなれない。だいたいお父さんにとっては高額な治療費も大した額じゃないんだから。


 私が死んでも世界は変わらず回っていく。死ぬのは仕方のないことなんだと思っていた。


 でもそんな折だった。――心臓移植の話が出たのは。




 * * * * * *




「ねぇ、そこの彼女。一緒にお茶しない?」

「はいはい。小堂こどうくん、朝の採血するからねー」


 小堂しげは浮かれていた。これまであった心臓が二つあるというコンプレックスがなくなったことで抑えていた欲求が溢れ出している。採血に来たナースにまでアプローチをかけるほどだった。


 これまでシゲが女性にアプローチをかけるなどということは一度もない。シゲとて思春期の高校生男子。当然、恋愛のアレやコレに興味はある。だがそれ以上に自分が人と違うことが露見することを恐れていた。それがなくなってみればどうだろう。世界はあまりに自由で持て余すほどだった。


 ナースはさっさと採血を終えると次の患者の元へと行ってしまう。まるで話足りない。シゲは退屈していた。術後からもう三日は経っているのに未だに病室の外に出してもらえない。

 早期離床だか何だかですでに歩行は問題なくできてるというのに。


「……抜け出すか」


 そうと決まれば善は急げと準備する。いや、悪いことだから悪は急げか。

 ベットに膨らみを作るなどして偽装工作をするとシゲはさっさと病室を抜け出した。薄い生地のパーカーを上に羽織り、フードも被る。こうすればよほど近くでない限り顔なじみのナースに気づかれることもないだろう。


 病室を出るとそこはしんとした空間だった。騒がしいはずはないのだが、なんと言えばいいのだろう。人の感情の波がない。

 凪だ。喜怒哀楽はなくただひたすらに患者から外的要因を排除している。

 だがシゲとしては居心地が悪かった。何もないことはシゲにとっては苦痛だ。喜びの声を聴いて、自分には見舞いが来ないからと不快に感じる患者もいるのは確かだろう。それでも喜びの声が溢れている空間の方がシゲにはいい。エゴだということはわかっていた。


 ロバと老夫婦の話をシゲは思い返す。ロバに二人で乗っても、どちらが片方が乗っても、乗らずに引いても批判を浴びるというものだ。


 答えの出ない問題というものはある。そういうものはやはり個人の中で答えを出す他にないのだろう。


「……屋上にでもいくか」


 さすがに階段で倒れたりしたら怖いのでエレベーターを使用する。ナースが乗っていたが見たことのないナースだったので、問題なくパスできた。それでもドキドキはしたのだが。


「うお、暑!?」


 屋上に着くと思わず声が出た。夏の熱気は凄まじい。院内の空調が快適すぎて忘れていたが、今は夏真っただ中だ。朝とはいえこんな暑さはとても耐えられない。シゲは早々に退散して自室へと戻ろうと歩を進めるが、廊下を歩いていると違和感を覚えた。


 こんな間取りだったかだろうか。限りなく同じに見えるのだが、辺りを見渡すとどうやら真逆の部屋に来ていたようだ。


「しまった……途中で廊下を真逆に曲がったか」


 こんなところで迷子になっているのを見られるわけにはいかない。廊下の先から聞き覚えのある声がする。春日井のものだ。


「花子ちゃんの経過は良好ですよ。まだ歩くことはできませんが、どうです? 娘さんにお会いになられては?」

「順調なのだろう。君がそう言うのだから、わざわざ私が確認するまでもない」


 誰かと話している。このままではこちらに来てしまう。焦ったシゲはすぐ近くにあった病室へと入った。間違えて入ったとでも言えば言い訳すればいい。とにかく今は通り過ぎるのを待つために隙間を開けて聞き耳を立てた。


「いやいや、そんな。わざわざご足労頂いたのに。ほら病室もすぐそこですよ」

「もう用は済んだのでね。この後にも予定があるんだよ。だからね、引き続き頼むよ春日井くん」

「……はぁ、そうですか。わかりました」


 声からしてこの男、いや父親はどうやら娘への愛情が薄いらしい。声も抑えずよくもあんなことを言えたものだ。すっと隙間を閉じるとシゲは思わず毒を吐いた。


「ひどい父親もいたもんだな。クソ野郎め」

「ええ、本当に」


 返事があったことに驚いて、シゲは声の主の方へと顔を向ける。大きなベットで一人の少女が物憂げに本を読んでいた。


 肩ほどまで伸ばした艶やかな黒髪、白磁のきめの細かい肌。長いまつ毛と姿勢の良さも相まって人形のようだ。こちらに目線を移すこともなく、その目はひたすらに文字を追っている。


 シゲははっと息を呑んだ。人に対して、初めて美しいと思った。


 一つになった心臓が初めて大きな鼓動を刻んでいる。シゲはまだその感情の名前を知らなかった。

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