第40話 いくら彼女のお願いなれど
「おはようございますシゲ」
「……お、おはようシオン」
早朝、シオンに声を掛けられてシゲは布団から起き上がった。シゲの目の下にはいつにも増して深く隈が刻まれている。一睡もさせてもらえなかったのだ……やましい意味ではなく。残念と言うべきか、よかったと言うべきか、ともかく何もなかったのである。
シオンは何もしてこなかった。ただ風呂上がりで上気した肌と浴衣姿で目の前を横切ったり、わざわざ隣に腰掛けたり、寝るときにもやたら布団を近づけ、終いには抱き枕代わりにされただけである……いややはり誘惑され続けたというべきだろう。シゲとて健全な青少年だ。なぜ手を出さなかったのかシゲ自身わかっていない。ただシゲは昨夜の自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいだった。
ほっと息を吐くシゲにシオンは唇を尖らせる。
「……いくじなし」
「うぐぁ!?」
シゲは鶏の喉を握ったような声を出す。男としては言われたくない言葉だ。とはいえ怖気づいたのも事実である。否定もできなかった。
「シゲ、軽く散歩に出かけますよ」
「……ええ? いや、シオン。俺たちは逃亡中だよ」
「だからです。追われたときに袋小路に入り込んだらおしまいですよ」
なるほどとシゲは得心する。その言い分は確かにもっともだが、シゲは身支度一つもなしで来たわけで、あるのは柴山から借り受けた制服だけだ。シオンがたんと音を鳴らして服かけを開けると女物の服がびっしりと揃えられていた。
「うお!? なんで旅館にこんなに服が……」
「ふふ、私の私服です。どうせ逃げたことはすぐに気づくでしょうから持ち出してしまおうと、あらかじめ柳田さんに渡しておいたんです。入院中にお母さんがたくさん買ってくれていたもので、ほとんど着たことないものばかりですが……これほど役立つ状況もないでしょうね」
「へぇ、いい話だね。さて俺の分はどこかな」
「これですよ?」
「……は?」
「これです」
シオンの言葉を反芻してみるが、シゲは脳の処理が追いつかない。これとはなんだろうか。馬鹿には見えない服でもあるのだろうか。それはそれで裸の王様だ。これ以上に目立つものはない上に猥褻物陳列罪となる。
「ご、ごめんシオン。耳クソ詰まってたみたいだ。何て?」
「コラ、汚いですよ。後で耳かきしますからね……シゲにはこちらを着てもらいます。追手は男女二人組を探すでしょうから、いい案だと思うんです。ほら、ウィッグも用意しましたよ」
「……マジで?」
「マジです。大真面目です。取りあえずコレを着てください。お願いしますね」
「無理だ! それだけは勘弁してくれ!」
理屈は理解できるが、よしじゃあ女装しようとはならない。
どう考えてもシゲはそういうものが自身に似合うとは思えないのだ。足にはすね毛だって生えているし、運動はしてないとはいえそれなりに男の体だと思う。顔だって中世的ではないのだ。そこに出来上がるのは女装ではなく変質者となるに違いない。
シオンはワンピースを手に、じりじりとにじり寄って来る。
「大丈夫ですよシゲ。私に任せて下さい。どうしたらちゃんと女の子みたいに見えるか勉強して来ましたから。ほら、脱いで!」
「なんでそんな準備がいいんだ!? いやいや何も大丈夫じゃないから! ちょ、シオン! やめ」
「お客様。朝食の用意が――」
おかみがノックして襖を開けると、そこにはシオンが馬乗りになってシゲの浴衣を剥いでいる姿。シオンとシゲは二人して「あ」と声を漏らした。
「……失礼致しましたわ。ほほ、半刻ほどしてからまた来ますねぇ」
「助かります」
「待って待って! 助けて! おかみさ、ちょ!」
ぴしゃりと扉が閉じられる。シオンがギラリと目を光らせた。
……どうやら味方はいないらしい。シゲは抵抗するのを止め、もうどうにでもなれと身を委ねた。
「あはは! シゲ、江の島っていいところですね! ほら、海がこんなに綺麗です」
「ははは……そうだね。いや、ですわねって言えばいい? 笑い方もおほほ?」
「いえそのほうが不自然なので、そのままでいきましょう。声の低い女の子も珍しくないですからね」
げんなりとした顔でシゲ、もといシゲ子とシオンは旅館付近を散策している。シゲのウィッグは明るい茶髪でワンピースに黒のソックスだ。対してシオンは髪の毛を一本に縛ってシャツにジーンズと逆にボーイッシュな格好である。
なぜ逆転しているのだろう。いや、確かに見るからに女子ではあるしシオンのいう女子と女子というペアには見えるだろうがなぜ。
疑惑の視線に気づいたのかシオンがふふんと胸を張った。
「動きやすさ重視ですよ。いいでしょう」
「うん? それって俺のほうは機動力落ちてないかな?」
「……気のせいじゃないですか?」
「さてはやってみたかっただけじゃないよな? なぁ?」
シゲの質問をシオンはふふふと笑ってスルーする。この恋人はなんというか……逃避行辺りからなんだか意地悪だ。流石に女装はこれきりにして欲しい。
「スカートはズボンに変えましょうか。このまま買い物へ行きましょう。いいのが売ってるといいですね」
「ああ、続けるんだ女装……はぁ、わかったよ。でも人通りの多い場所に行くのはちょっと怖いな。流石に一日でここまで嗅ぎつけないだろうけど、探し回ってるだろうし」
「そうですね。人だかりは避けましょう。それに追手なら多分、今頃私たちの囮を必死になって追ってるでしょうね」
「え……囮? 何それは」
「ふふ。心強い協力者たちがいるんですよ」
シオンがウインクする。一体誰だろうか。柴山か? タケか? それに今、シオンは確かに私たちと言った。
「いやいやいや。囮ってそんな危険な真似、やめさせないと。俺の代役殺されちゃうよ。シオンの代役は大丈夫だろうけど古小浦さんにでも頼んだの?」
「あー……いえ。違います。彼女は、その。いまいち信用に欠けると言いますか。お願いしたというよりシゲのことを心配して私のところに来た子がいまして。事情を話したら向こうから協力したいと。というより、その子の提案なんですよ。あとシゲの影武者に関しては心配ご無用かと」
誰だそれはとシゲは首を傾げる。それにシオンが古小浦をそう評価しているとは。意外だった。まぁ人の感性は人それぞれだ。余計なことは言うまいと心にしまう。
しかし、一体誰が囮を……。
誰のことか思い当たっていない様子のシゲにシオンは苦笑する。
「シゲの人徳ですよ。でも、あんなに可愛い子に懐かれてるなんて油断ならないんですから」
なんだかちょっと意地悪だったのはそういうことかとシゲは口の端を緩ませた。とはいえ囮役たちは本当に誰なんだろうか……? シゲにはその相手が一向に分からなかった。
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