第29話 止まない声は殻に籠れど

「小堂、私だ。担任の荒井だ。少しだけでいい。顔を見て話せないか? おい、小堂? ……学校で待ってるからな。来なかったらまた来るぞ」


 シゲが録画されたインターホンの録画を再生するとそんな声が入っていた。どうやら担任の荒井がわざわざ家まで来ていたらしい。シゲの家はマンションなので正確にはマンションの下までと言うべきか。とにかく家まで来たわけだ。

 真っ暗な部屋の中、シゲは寝ぐせのついた髪をバリバリと爪を立てて掻き毟る。爪の間に削れた皮膚が挟まっていた。


 痛い。血は出ていないだろうか。まぁ、血が出ようが髪が抜けようがどうでもいい。


 シゲの頭にはずっと靄がかかっていた。自室を出るが目的を忘れて席につけばトイレに行こうとしていたと思い出す。沸かしたお湯は沸かしたことを忘れて冷めきっている。意識が世界に置いてきぼりにされていた。


 火曜に続き、水曜、木曜とシゲは学校を無断欠席している。三日も休みが続いたので荒井が早朝から家に来たわけだが、シゲは寝ていた。いつもなら母親が代わりにでるところだが、ここのところシゲの母は家に帰っていない。どうやら仕事が立て込んでいるようだ。土日も帰って来るか怪しい。

 シゲはただひたすらに気怠かった。眠れないのに眠い。気を失うように眠りにつくので、まるで寝た気にならない。

 腹が鳴る。思えばシゲは昨日、何も口にしていなかった。


 冷蔵を漁るが碌なものがない。シゲは残っていたハムを口に詰め込み、麦茶で流し込む。それでは足りなかったのでコーンフレークをぼりぼりと食った。そして空腹を埋めるとベットに体を沈める。うずくまって耳を塞ぐ。


 声が止まない。誰もいないはずなのに。頭の中で木霊している。化け物、化け物と誰かがシゲを呼んでいるのだ。ほら、今も――。



 ピンポーン。



 チャイムの音でシゲは飛び起きた。また荒井が来たのかと勘繰ったが、それならこんなに機敏に起き上がったりはしない。無意識に嫌な予感がしたのだ。一日に続けて来るのは荒井らしくない。なら来るのは誰か。それはシゲの友人だ。だがタケは喧嘩の最中で、他にシゲのところへと訪れるのは。いや、でも、そんなまさか。


「シゲ。私です、シオンです」


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 歓喜の胸の高鳴りではない。動揺、困惑、そして恐怖。シゲは今の姿をシオンに見られたくなかった。


「話したいことがあるんです。入れてくれませんか?」


 マンションのインターホンには画面が付いている。三日ぶりに見るシオンは以前見たときと何も変わっていない。当たり前だろう。たった三日経っただけなのだから。画面にうっすらとシゲの顔が反射している。


 精気のない顔に悪化した目の下の隈でひどく老け込んだように見えた。自分でそう思えるぐらいなのだから、他人から見たら更にそう感じさせるに違いない。


 帰ってくれ。頼むから、早く帰ってくれ。


 シゲは必死にそう願うがインターホンの通話がいつまで経っても切れない。そのうち通話は自働で切れた。通信は切れているのにほっとできない。麦茶を飲んで気持ちを落ち着けようとするがむしろ後ろめたさが増す。

 シゲは靴のかかとを潰して扉を開け、転びそうになりながら階段を駆け下りて行った。階にして四階。シゲが息を切らすには十分な高さだ。


「こんばんは。シゲ」


 マンションの扉の前でシオンは待っていた。

 やっぱりな、とシゲは眉を困らせる。きっとシゲが来なかったらずっと待っているつもりだったのだろう。空調も効いてない蒸し部屋のようなエントランスで立たせ続けるわけにはいかなかった。


「……おはよう」

「もう。こんばんはって言ったじゃないですか。私、学校終わりに多良部さんに教えてもらってここに来たんですよ?」

「え……あ」


 シゲがよくよく外を見れば空は夕暮れだ。そもそも荒井が来た録画があったのだから朝じゃないとすぐにわかってもいいはずなのに。そういえばカーテンも開けていなかったか。


「……シゲ、ちゃんと食べてますか?」

「食べたよ。さっき」

「昨日は?」

「……何も」

「ほら、もう」


 シオンは手にぶら下げていたコンビニの袋からゼリー状の栄養補給剤のパックを取り出し、シゲの顔に当てた。ひんやりしてシゲはビクと体を震わせる。後ずさったシゲの手にシオンはそれを渡した。


「とりあえずはそれ食べてください。すごいんですよ、それだけで昼食になるそうです」


 シオンは相変わらずコンビニにお熱らしい。ゼリーのその売り文句は人によるだろうに。シゲはふっと口元を緩めた。


「……話、あるんだろ? うちに上がっていきなよ、シオン。特に出せるお茶もないけど」

「ええ。お邪魔させてもらいます」


 好きな子を家に招く。平常時だったら期待と不安の入り混じる甘酸っぱい思いだったろうに、今のシゲにはあまりにも気が重い。シオンも緊張している様子はなかった。それはそれでもやもやもするのだが。


 ちょっとした不満を感じてしまいシゲは頭を振る。姉弟かもしれない。そんな相手に想いを寄せてはいけない。


 シオンが話したいこととはそのこともあるのだろうか。考えれば考えるほど憂鬱になる。ぐらぐらと揺れるエレベーターに、シゲには自分の首へと落ちるギロチンが上がっているように感じた。

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