第24話 さよならなんて言わないで

 高良山の言葉にシゲは動揺を隠せなかった。放課後の学校に婚約者を名乗る男、これは夢か夏が見せる陽炎か。シゲは振り返ってシオンを見る。嘘だと否定して欲しかった。だがシオンの言葉はシゲの期待とは少し違っている。


「元、婚約者です」

「まあそうだね。今はそうだ」


 冷たいシオンの態度は気にも留めない。それでもまだ困惑するシゲにシオンは説明を続けた。


「彼との婚約は半年前に破棄されてます……私の体調が悪化して、破棄したのはそちらからでしたよね?」

「オレを責めないで欲しいな、花子さん。親が勝手に決めて勝手に破棄したんだ」

「……それで私が快復したから破棄をなかったことにして欲しいと?」

「はは。虫のいい話だってオレも思うね」


 何を笑っているのだろうか。高良山の態度にシゲは黙っていることができなかった。


「高良山さん、アンタなんなんださっきから! 何をそんな他人事みたいに!」

「はぁ……シゲくん、君にはわからないだろうね。オレだってこんなことしたくないんだ。本当に。でもね、仕方ないんだ。親が偉大だと子どもに選択肢なんてない。君のような自由な人が羨ましい」

「羨ましい……?」


 今、羨ましいと言ったのか。誰が? ……俺が? 羨ましい?


 ぷつとシゲの中で何かが切れた音がした。思わず笑いが漏れる。様子のおかしいシゲに、シオンは困惑した。


「シゲ?」

「ふ、はは。ははは……羨ましい? 羨ましいって? ふふふ」

「おや、気に障ることを言ってしまったようだ。謝罪するよ。軽率な発言だったね。わかるとも。どんな生まれの人にだって悩み事はあるからね」

「……わかる?」


 高良山に悪気はない。相手を怒らせたなら謝罪する心を持ち合わせている。ただの嫌味な奴じゃない。

 シゲはちゃんと気がついていた。だがそれ以上にシゲの地雷を踏み抜いている。


「ふざけるな、わかるわけがないだろ」

「シゲ、どうしたんです。ちょっと落ち着きましょう?」


 なだめるシオンの声もシゲの耳には入らない。これまで内に溜め込んできたものが決壊していた。


「お前にわかるか……訳もわからず石を投げられる気持ちが。ありもしない嘘を並べ立てられる気持ちが。生まれたことにすら後悔する気持ちが、お前なんかにわかるか!!」


 はぁはぁと息を切らして言い放った後、シゲははっとする。シオンも高良山も目を点にしていた。それだけではない。ここは学校だ。人の目がある。目立たないように徹してきたというのに、よりにもよってこんな馬鹿な真似を。


「あ、いや。これは……」

「――素晴らしい演技だ! シゲくん! いやぁ、今日は来てよかった。コレはオレの名刺だ。その気になってくれたなら連絡してくれたまえよ!」


 高良山は先ほどシゲが騒いだとき以上に大きく声を張り上げ、シゲの胸ポッケに自分の名刺をねじ込んだ。

 演技? 名刺? 一体何を言ってる。


 唖然とするシゲをよそに高良山は校門に止めた車に戻ろうとする。反射的にそれを止めようとしたシゲの腕をシオンが掴んだ。


「シゲ」


 車が走り出したのを眺めているうちにシゲははっと気づく。


 たった今、自分は助けられたのだ。高良山に。あれだけ敵意を剥き出しにして怒りをぶつけられたというのに、高良山はシゲを気遣って演技をした。まるでスカウトに来たかのように装って。


「……し、シオン。俺、俺は――」

「大丈夫ですよ、シゲ。大丈夫」


 シオンは何も聞かずにシゲの手を握った。シゲは何も言葉を返せない。


 負けた。高良山に、人としての器で。

 それにシゲの抱える闇もシオンにその一端を見せてしまった。気持ちは深く深く沈んでいく。冷え切った心に、握られた手からぬくもりが伝わってくる。


 そのぬくもりを失うことが、シゲは何より恐ろしかった。



 * * * * * *



「落ち着きましたか? シゲ」

「……うん」


 シゲとシオンは学校からできるだけ離れた場所でカフェへと入った。冷たいアイスコーヒーでシゲの頭に籠っていた熱が引いていく。

 コレで二回目だ。シオンのことでシゲが余計なことをするのは。


 思い返すほどシゲは自分が嫌になる。机に突っ伏して腕で顔を覆うシゲに、シオンは優しく笑いかけた。


「ありがとうございます、シゲ」

「……前と同じだ。俺が余計なことをした。ごめんシオン」

「確かにデジャヴかもしれませんね」

「でじゃ……何それ?」

「ふふ。同じって意味です。でも全部が全部同じじゃないですよ。今回は本当に嫌だったので助かりました」


 シオンはコーヒーにシロップを入れてかき混ぜながら、そう言ってはにかんだ。カランカランと氷がグラスを叩く音が耳に心地良かった。底に溜まるシロップはそうそう溶けていない。

 シゲはつい不満を漏らした。


「……知らなかったよ、シオン。婚約者がいたなんて」

「ごめんなさい。シゲはきっと嫌がると思って」

「まぁ、うん。それはそうなんだけど、あー、その」


 シゲはいつにも増して歯切れが悪い。シオンは何も口を挟まなかった。


「やっぱり気にするよな、俺の秘密」

「ええ。もちろん」

「……聞かないの?」

「聞いたら答えてくれるんですか、シゲは」


 しんと静まり返る。やっぱりとシオンが口を開こうとしたとき、シゲが言葉を紡いだ。


「俺は……みんなと、違うところがある」

「シゲ、言わなくていいんです。わかってます、さっきの様子を見れば事情があることくらい」

「いや言う。言いたいんだ。言えるところだけでも。そうじゃないと、俺がシオンと対等でいられない」

「……わかりました。聞かせてください」


 シオンはアイスコーヒーを一口飲んで口元を拭いた。そしていつも以上に姿勢を正す。準備はできているといわんばかりだ。

 シゲは唇を舐める。乾いてがさがさの唇はその端が切れていた。血は流れてないが塞がりもしない。口を開くたびに傷口が開く。だからいつだって傷は癒えなかった。


「生まれつき……そうだったんだ。そのことで、あることないこと囁かれた」

「はい」

「いじめられた。もう何回も転校してる」

「はい」

「……生まれてこなきゃよかったって、思ったんだ」

「はい」


 シオンは淡々と相槌を返す。シゲは開放的な気分になっていた。人に話すだけでこんなにも心が軽い。自分を蝕んでいる毒が抜けていく。このまま、全て話してしまいたい。だけど、それをしたら今度はシオンが自分と同じ重荷を背負う。そんなことはさせられない。


「……ごめん。ここまでしか話せない。ほとんど吠え散らかしたのと同じで、がっかりしただろ」

「話してくれてありがとうございます、シゲ。今ので十分ですよ」

「でも」

「ちゃんと面と向かって言うのと間接的に聞くのは別です。ちゃんとシゲは対等です。だから本当に隠し事を言わなくちゃいけないのは私なんです」

「シオン……?」


 シゲが伏せがちだった顔を上げてみれば、シオンはその顔を曇らせていた。そのときはじめて気が付く。いつだってシオンはシゲを見てくれていた。なのにシゲはシオンのことを見ていない。その余裕がなかった。


「私は高良山さんとの婚約を受けようと思ってます」

「どうして!」

「……私が父の意に逆らったら、お母さんは父にとって邪魔な人になる。父には母に対する愛情なんてないですから。私はお母さんを見捨てられません」


 シゲは否定することも、そんなことするなとも言えない。母親のためにという気持ちはシゲにも痛いほどわかる。母親がいるからシゲは生きてきた。

 高良山の選択肢などないという言葉を、シゲは今更になって理解する。


「だから、さよならなんです」


 グラスの氷が溶け崩れてカランと音を鳴らした。わかりあえたはずなのに関係が壊れていく。


 親という枷が子どもを鳥かごに押し込める。飛べるはずの羽から風切羽根を切り落とす。シオンは籠の鳥で、シゲは籠の外の鳥だった。高良山のいう自由の意味を、シゲはこのとき始めて分かった気がした。

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