第5話 楽しい時間は過ぎるのが早いもので

「退院おめでとう、小堂こどうくん」

「ありがとうございます。春日井かすがい先生」


 手術から十日、シゲは退院の日を迎えていた。春日井が出口まで見送りに来ていた。空は快晴でまさしく退院日和。

 ようやくの退院であったがシゲにとっては、もう終わってしまったかという気分だった。


 シオンと会えなくなることが寂しいのもそうだが、院内があまりに快適だったためだ。

 というのもこの病院、アメノミトリ医院は日本最先端の技術を動員したVIP御用達の設備となっている。真夏でも温度管理は徹底されている上、よほど対策されているのかコロナが院内で出たという話は聞いたことが無い。


 シゲとしてはもうしばらくいてもよかったぐらいだ。他の入院待ちの患者さんもいるのだから、そんなことを言ったらきっと春日井からげんこつを食らうだろう。


「いやぁ、随分かかりましたね。先生」

「早いくらいだよ。心臓移植したわけだし、二週間くらいはかかると思ってた。まぁ、病室抜け出すくらい元気だったから当然な気もするけどねぇ」

「あ、あはは」


 シゲは視線を逸らす。たぶんシオンのところに足しげく通っていたから十日かかっただけで、それがなければもっとはやく退院していたかもしれないからだ。

 そのことを指摘されたくなかったので、シゲはおだてることにした。


「奇跡の手のおかげですよ。春日井先生」

「やめてくれよぉ恥ずかしい。なんで君がその呼び名を知ってるんだい」


 奇跡の手というのは春日井の二つ名だ。何でも春日井の手にかかれば不可能な手術だってできるのだとか。胡散臭いが腕がいいのは確かなのだろう。そんな手でげんこつしてくるんじゃないとシゲは指摘したいところだ。


「シオン……ああいや、あー。他の患者さんから聞きまして」

「しおん? そんな名前の患者さんいたかなぁ」


 春日井がうーんと唸る。シオンというのはあだ名なのだがそれはシゲと花子だけの間で共有されるものだ。シゲはそれをみすみす他人に教える人間じゃない。


「まぁ別に俺の場合、いらないもの取っただけですからね。もっと早くても良かったぐらいじゃないです?」

「いやいやいや。前例がないものだからね? うっかり家に帰してから倒れたらどうするんだい」


 やれやれと首を振る春日井に、それもそうかとシゲは頭をかく。今日は土曜日だ。考えてみればわざわざ休みの日に退院させるというのは二日間は家で親に様子を観察させるためなのかもしれない。


「とにかくね、しばらくは安静にだ。安静にだよ。君はすぐに約束を破るから心配だなぁ。静代しずよさんにもちゃんと様子を見るように言ってあるとはいえね」

「わかってますよ……というか母さんと先生、名前呼び合う仲なんです? 俺、春日井さんのことお父さんって呼ぶの嫌なんですけど」

「やだなぁ、そんなんじゃないって。あれだよ、ほら。同じ苗字だからそう言ったほうが分かりやすいだろう?」


 シゲはどうだか、とそっぽ向いた。

 それを理由にところ構わず患者の母親を下の名前で呼んでいたら大変なことになるんじゃないだろうか。シゲの母親は髪が長くどこか幸が薄そうなところはあるが、眼鏡の知的な美人である。

 春日井がうっかり母親に惚れた可能性をシゲは否定できなかった。


「ま、まぁ何はともあれだよ。これまでとは違う体になったんだ。ちゃんと定期検診に来るんだよ? お金は取らないから」

「それはありがたいですけど、いいんですか? ……もらうものもらってますけど」


 少しだけシゲは視線を下げる。

 このドナー提供の話は無償のものではなかった。入院中のお金も向こう持ち、慎ましく暮らせば働かずに済みそうなくらいの額をもらっている。二つあってもいらないものをとっただけなのに、もらいすぎだと思うくらいだ。俺の心臓提供者は、きっとどこぞの金持ちの娘なのだろう。


(……もしかしたら、この病院で入院してたかもな。あれ、なんか引っ掛かるな?)


「心臓提供してもらったんだからね。当然だよ、とーぜん……ところで小堂くん。勉強のほうは大丈夫なのかい?」


 春日井の指摘にシゲは思考の海から現実へと引き戻される。そうだ。二週間近くの遅れは大きい。加えてシゲは真面目な生徒ではないのだ。夏の試験まで残された時間は多くなかった。

 考えるだけで憂鬱になる。シゲは急に肺へと溜まってきた重い息を吐きだした。


「あー、まぁ。なんとかしますよ」

「全く。せっかく時間があったんだからね、病室を抜け出したりしないで勉強をしたまえよ勉強を。やんちゃなやんちゃな小堂くん。君は毎度毎度どこに行ってたんだい」

「秘密です。まぁ、隠しても無駄かもしれませんけど。病院内のカメラ見たらわかるでしょ?」

「うー……出入口とか緊急患者さんのところならまだしも、そんなぽんぽんとカメラつけるわけにはいかないんだよ。患者さんのプライバシーとかあるからねぇ」


 言われてみればその通りだ。VIP御用達なのにとも思ったが、VIPだからカメラに移りたくないときとかもあるのかもしれない。

 愛人が見舞いに来たとか、なんて冗談冗談……と思ったシゲだったが確か隣室の患者さんのとこに奥さんじゃない若い女性が結構頻繁に来ているのを見たのを思い出した。

 世間は意外と身近でドロドロとしているものだ。


「あ、しまったなぁ……どうせバレるんだからって言えば小堂くんが自白してくれたか」

「しませんよ。バレるならまだしも秘密って約束したので」

「ふむ。しおんくん? との約束かい? だったら僕との約束も守ってくれてもよかったじゃないか」

「野郎との約束なんて約束の内に入んないんで」

「こーどーうくーん?」


 やべ、と怒られることを察したシゲは駆け足で母親の運転する車へと向かった。だから走るんじゃないよ、と春日井が叱っている。


 こうしてシゲは新たな一歩を踏み出した。

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