第37話 キミのまにまに逃避行

「……遅いなぁ」


 車でマンションの入り口を見張っていた若い男が呟く。彼はハンドルを指先でトントンと叩き、裾にできた皺が目に入る度に手で伸ばす。助手席を斜めにしてタバコをふかす初老の先達が「どうした?」と尋ねた。


「さっきマンションに入っていった制服の二人ですよ先輩。アレ、監視対象と同じ高校です。コンビニの袋を持っていたのでお見舞いに来たようですがどうにも時間がかかりすぎな気がして」

「気にし過ぎだろう。お前はお見舞いと言うが、同じマンションに住んでいるだけでどちらかが家に遊びに来たカップルかもしれない」

「いや怪しいですね。俺の勘がそう言ってます。監視対象をこっそり逃がすつもりに違いない」

「そうか。じゃあ引き続き頑張れよぉ」


 先達は更に椅子を倒し、しまいにはアイマスクまで取り出した。


「先輩も真面目にやってくださいよ! これが俺の昇進に関わるんですよ!」

「おれぁは別に昇進だとかは興味ない。お前がやるというから付き合ってるだけだ。それになぁ、この監視は何やら胡散臭い。要人警護の俺たちにどうしてこんな仕事が出てくる。あの辛気臭いガキが連れ去れたりしないように常に近くで守れって話だが……まるで俺たちが逃げないように見張ってるみたいじゃねぇか。いっそ逃がしてやればいい。それにお前、わざわざ点数稼ぎする必要もないだろう。優秀だしなぁ」


 おだてられて後輩は鼻を擦る。ちょろいものだと先達は鼻で笑った。内心で馬鹿にされていることにも気づかずに後輩はマンションの入り口を噛り付くように見ている。そして何かを見つけるとはぁと項垂れた。


「なんだ、どうした?」

「すいません先輩、俺の勘違いだったようで……普通に出てきました。先輩の言うように気張り過ぎでしたね」


 言われて先達がマンションから出てきた二人を見れば確かに先ほど入っていった二人組だが、妙な違和感があることに先達は気が付く。歩き方だ。あの丸刈りはあんな踵をぶつける歩き方じゃなかったように思う。


「先輩?」

「……いやぁ、なんでもねぇよ。ほれ。俺のアンぱん分けてやるから食え」

「うわ、ベタっすね先ぱ……ちょっとちょっと俺のスーツにパンくず零さないで下さいよ、もう!」


 パンくずをとることに必死な後輩をよそに、先達は去っていく二人の背を見つめる。頑張れよ、少年少女と口に出さずに呟いた。



 * * * * * *



「……追手はいないみたいですね。うまくいってよかったです」

「ああ、うん。本当にな、あはははは」


 ほっと一安心するシオンに対して、シゲは笑えない状況下であるのに笑って返答する。動揺よりもいきなり髪を剃られたことへのショックで凹みに凹み、逆にハイテンションになっていた。壊れているとも言える。


「もう。いい加減、機嫌直してくださいシゲ。髪を剃っちゃったことは本当に悪かったですから」

「いや? 別に? 謝ることなんてないよ? うん。俺を救うためだしな、うん」

「うう……ごめんなさい、そんなに髪の毛大事にしてたとは思わなくて」


 シゲとて自分がまさかこんなに凹むとは思っていなかった。自分の容姿を気に入っているわけでもなく、卑下していたわけでもない。ただいつもあるはずのものがなくなるというのはとてつもなく大きな喪失であることを思い知った。

 いつまでもへそを曲げているわけにもいかないとは頭では分かっている。ただシゲには少し調子を取り戻す時間が必要なだけで。


「じゃあ、わかりました。私も髪を剃ります。変装にも役立ちますし……」

「やめてくれ俺が悪かった! 頼む、それだけは!」


 シオンの肩をがっと掴み、ぐいと顔を近づけシゲは嘆願する。

 瞬時にシゲは正常に戻っていた。そんなことをされたらシゲはむせび泣く。シオンのサラサラの艶のある黒髪は美しい。風で靡く様が好きだ。指で髪を耳にかける仕草が好きだ。ふわりと香るシャンプーの香りが大好きだ。

 もちろん髪がなかったとしてもシゲはシオンが好きなことに変わりはない。だが相手の好きなところは多い方がいいというのも真理である。


「わ、わかりました。切りませんから! 顔が近いです!」

「本当? 本当に? よかったぁ……」


 シゲはほっと一息つく。声を抑えることもなく説得していたあたり逃亡中という危機意識が足りていない。そんなことよりもシゲにはシオンの髪が大事だった。


「もう、シゲは本当に私のことばかり気にかけるんですから。でも、そうなんですね。そんなに髪が好きだったんですか。長い方が好きなら伸ばしましょうか?」

「んー、それも見てみたいけど今の髪型も好きだしなぁ」


 髪の長いシオンを空想する。きっと似合うだろう。それに髪が長いと髪型も幅が広がるわけで。ツインテールにサイドテール、ポニーテールにとテールテールとシゲの頭に浮かぶのはしっぽばかりだ。恋愛経験のろくにないシゲが知っている髪型の名前などそのくらいである。

 彼女の髪型に悩むとは、なんという贅沢な悩みだろう。


「シゲ、シゲ! 妄想から戻ってきて下さい。そろそろ行きますよ!」

「ああうん……て、どこへ?」

「ふふん。江の島です!」

「へー江の島……え!? 江の島!? 何故に!?」

「観光客に紛れます。そこの旅館に伝手があるそうなので……それに」


 困惑するシゲにシオンはいたずらに微笑んだ。


「逃避行だったとしても、せっかくシゲとのデートですから」


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