第38話 自分が何者かを俺はまだ知らない
シゲとシオンは車の小気味いい振動に身を委ねていた。母子家庭で家に車の無いシゲとしては車に乗るというだけで特別な体験だ。車窓の流れる景色を眺める。狭い窓に閉じ込められているのに街はこんなに広い。
シオンはシゲの肩で眠っている。シゲは運転席に顔を向け、閉じていた口を開いた。
「……ありがとうございます、柳田さん。まさかあなたが俺の逃亡を手助けするなんて思いませんでしたよ」
運転席でハンドルを握っているのは御園家の執事、柳田である。シオンが車を用意したと言ったとき一体誰が運転してくるのかと思えばまさかの人選に驚いたものだ。礼二にシゲが死ねと宣告されたときに同乗していた人物でもある。
信じられない気持ちもあるが、シオンが信じたのだからシゲも信じる腹は決めていた。柳田はちらとルームミラーでシオンが寝ていることを確認すると呟く。
「……シゲ殿、礼など不要にございます」
「いやそんなわけにいかないでしょう。ご当主様を裏切ってまで俺を庇うことなんてないのに」
「違うのでございます。むしろ責められるべき立場であると言えましょう。礼二さまがああなってしまった原因の一端は……わたくしめにあるのですから」
柳田はそう言って遠い目をする。そういえば柳田はシゲの母のことを知っている口ぶりだったとシゲは思い出した。
「柳田さん。あの人が母と恋仲だったらしいですけど、実際どうなんですか?」
「ええ、その通りでございます」
「へー」
返答はすれどシゲは全くもって腑に落ちない顔をする。どうにもあの母が異性に惹かれている姿が想像つかないのだ。しかもあの横柄で独り善がり、加えて礼にかける男なぞに恋心を抱くなど。名前に礼二とあるというのに、或いは礼は二の次という意味か。
柳田はシゲの疑問ももっともだと苦笑した。
「今の礼二さまを見れば納得いかないでしょうなぁ。変わってしまったのです。シゲ殿の母君、静代殿が去ってしまってから……わたくしがそうせよ、せねばならぬと当主の座に座らせてしまいました。二人は深く深く愛し合っていたのに」
「うぇ……親の惚気話は聞きたかないですけど、そういう事情なら柳田さんに俺が文句を言うのが筋ですね。ひどいことをするじゃないですか。俺が母の腹にいたというのに」
「……それについては少し事情がありましてな。わたくしから子細を告げることはできませぬが、二人の間に肉体関係はなかったと把握しております」
「……は?」
シゲはぽかんと口を開ける。言っている意味がわからない。困惑をそのままに柳田へ質問を投げかける。
「そ、それじゃ俺は御園礼二の子どもじゃないと?」
「いいえ。シゲ殿はきっと礼二さまの子でありましょう。わたくしもつい最近までは疑っているところもありましたが、そうでなければお嬢様の臓器提供できるはずもないですからな」
「えーっと……じゃあ母はどうやって俺を?」
シゲの問いに柳田は答えない。代わりに礼二について語った。
「……礼二さまは子を作ることを嫌悪しておりました。己が道具として使われているからでしょうなぁ。ですから自らの性欲さえ嫌っていた」
「ええ、俺の質問は無視ですか……はぁ。で、そんな健常なお方がどうして女好きな遊び人なんぞに?」
「おや、お嬢様がそうおっしゃられたので? それは誤解でございます」
「誤解?」
「日本有数の資産家、その御曹司。政界へのパイプもあるお方。縁を結ぼうとする輩は数知れません。ですが礼二さまは誠実な方でしたので誘惑には乗りませんでした。それが崩れた事の始まりは、礼二さまが睡眠薬を盛られ襲われたことにありました」
シゲは固まる。襲われた? 男が襲われる側になるとは、シゲの頭では想像もつかなかった。
「それからでございます。多感な時期に性欲を押さえつけていた礼二さまにはそれはあまりにも衝撃的な出来事だったのでしょうな。さらに悪いことに周りから誘われることも多かった。湧き上がる情欲を抑えることはできず、何人とも関係を持ったと聞いております。あくまで性のはけ口、ただ誰一人として心を通わすことはなかったそうな。大人になって隠すのがうまくなりましたがね、今もそういうことはしているのでしょうな」
「……そういう事情ですか。同情はします。でもそれってわざわざ何人も抱く必要があったんですか? 母さんがいたのに」
「いたからでございましょう。礼二さまにとっては抱かないことが愛の証明だったのですよ」
でも結局は抱いたから俺が生まれたんじゃないか。
シゲは口から出かけた言葉を飲み込んだ。ただでさえ吐き気がするというのに、親の痴情のもつれにこれ以上踏み込みたくなかった。
「わたくしがあのとき止めさえしなければ、妻として静代殿を迎えていればよかったのです。わたくしが仕えていたのはシゲ殿だったかもしれないといいますのに」
「……でもそしたら、俺はシオンと出会えていませんでしたよ」
「そう言っていただけるのは嬉しいのですがなぁ。ご兄妹ですぞ?」
「ははは……血が濃いと子どもに影響が出やすいと言いますから気にするところもあるでしょうけど、安心してください。俺は子ども作る気はないので」
「……やっぱり、似ておりますなぁ」
「はい? 何がです」
「なんでもございませぬ」
柳田は初めて笑顔を見せる。懐かしむような、悔やむような……誰の面影と重ねたのだろうか。その顔をよく見ようと首を動かそうとして肩にあるシオンの顔が目に入る。その顔は少しむっとしている気がした。
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