第44話 誰そ彼は何処へ
「結構遊んじゃいましたね」
海に沈む夕焼けを眺めながらシオンが呟く。隣でシゲが「うん」と相槌を打っていた。逃亡生活では閉塞感から外に出てしまうことがある。シオンはそのことを考慮して最初は敢えて外に出る選択をした。
それが裏目に出たのか、シゲがトイレに席を立った際にこっそり後をつけていくとタケこと
注意するか悩んだがシオンは指摘しなかった。先は長いのだから下手にストレスをかけるべきではない。
シオンはそんなことをぼんやりと考えながら、海に沈んでいく夕日を恋人と二人で眺めていた。
「綺麗な景色ですね、シゲ」
「綺麗だけど俺はちょっと困るかな」
「え? どうしてですか?」
「夕日でシオンの顔が見えない」
「ふふ。たそがれ時ですね」
「ああ、それは知ってる! 格好いい漢字で書くよね。黄色く昏いってさ」
シゲは知ってたことが嬉しいのかはしゃいでいる。なんだか子どもみたいとシオンはついつい微笑ましい視線を送ってしまった。
「ええ、そうですね。でも、もともとはアナタは誰という意味で
「へぇ。流石、シオンは物知りだね」
素直な賞賛にシオンは少し照れくさい。
シゲは自分のことを卑下しがちだが、その実、他者の優れた点を素直に認める素直さと嫉妬しない心を持っている。それは実はすごいことなのだとシオンは思う。そいういうところが大好きだ。
……まぁ実際はコンプレックスをされれば、シゲには素直さもなければ醜い嫉妬心が剥き出しとなるのだが。
「もし、あなたは誰ですか?」
シオンは夕日に溶け込んだシゲに向かって呼びかけてみた。シゲはきょとんとしたがこちらの意図を汲み取ってくれたらしい。
「俺は
「
「お、おお。うん」
シゲは照れて髪をぼりぼりとかく。シオンの顔も赤いのだが、夕日が隠してくれていた。
「なんだか懐かしいですね、シゲ。覚えてますか? 出会った日のこと」
「もちろん」
「病室に転がりこんできたシゲに驚いてお話して、シゲったら名乗りもしないうちに私へあだ名をつけようとして」
「俺はその前に嫌いですって言われたけどね」
「そ、それはシゲが名前で呼んだからで、そもそもシゲの勘違いですから!」
「ははは、うん。そうだ、そうだったね」
シゲが笑う。夕焼けで何も見えないけれど、どんな顔で笑っているかシオンには分かった。シオンと話すときのシゲはいつだって笑ってくれていたから。
まだ出会ってから数か月なのにシオンはシゲとずっと一緒にいた気がする。あの頃は恋なんて疎遠なものだと思っていて、これからも生きていくことに戸惑っていたのに。いつの間にこんなにかけがえのない人になったのだろう。
「……シゲはどうして心臓が二つあったんですか?」
シオンはずっと聞けないままでいた質問をした。夕闇の中でシゲはどんな顔をしているのだろう。一瞬、しんとするがシゲは普段と何ら変わらない声で返した。
「さぁ、なんでだろ。あ、隠してるとかじゃないよ? 本当に知らないんだ」
「そうなんですね……ごめんなさい。嫌な質問でしたよね」
「いや、聞いてくれて嬉しかった。俺たちの間に隠し事はいらないんだ。どんな質問だってして欲しい」
相変わらず夕闇で顔が見えない。きっとシゲはこちらに向かって笑っている。だからシオンも笑って頷いた。
「そろそろ宿に戻ろうか。シオン」
「はい。そうしましょう」
シゲが先を歩く。シオンはその背を追った。街灯沿いの車道側をシゲが歩く。ぶらついているシゲの左手がシオンの目に留まる。手を繋ぎたいとふとそう思った。
手を伸ばそうとして一瞬ためらう。シゲはきっと知らないがシオンは怖がりだ。嫌がったりしないとわかっていても嫌われないか怖い。シゲは笑って許してくれるから一歩踏み出せる。いざその手を握ろうとしたとき浜辺で複数の爆発音が鳴った。
「きゃ!?」
反射的に頭をかけてうずくまったシオンがちらと音の鳴ったほうを確認するとそれはどうやら爆竹のようで、浜辺で騒ぐ同い年くらいの不良たちがいる。
まったく人騒がせな人たちだ。
「……はぁ、なんだ。びっくりしましたね、シゲ」
視線を前に戻すとそこにシゲはいなかった。
「……シゲ?」
シオンが辺りを見渡すがシゲの姿はない。シオンに冷汗がどっと押し寄せる。頭が真っ白になりかけたシオンの耳にゴンゴンという音が聞こえてきた。はっとして元を辿る。それは車道に止めてあったワゴン車からだった。
「シゲ!」
ワゴン車はすでに動き出している。速度をみるみる上げて車の合間を縫うように進んでいった。
「そんな! 嘘! 待って、待ってぇ!」
シオンが手を伸ばしたところで車は止まらない。シゲはもう帰ってこない。
大波の後悔が押し寄せる。ためらわずに手を握っていれば、迂闊に外を出歩いたりしなければ、江の島なんて観光地を逃げ場に選ばなければ。そもそも逃げるならずっと移動し続ければよかった。いっそ海外にでも、手の届かない。手が届いたとしても時間がかかる場所へ。
いや、今はそんなことより車のナンバーを、いや、どうせ偽装されているだろうし、でも少なくとも今はその番号で、でももう遅くて、いや、いや、嫌、嫌、嫌!
車はもう、見えない。
「いやぁあああああああ!!!」
夕闇が少女の悲鳴を呑み、溢れ零れて夜に広がった。
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