第34話 偽りの日々は終わりを告げて
空は快晴。雲一つなかった。開く様子のない本屋の向かいでパン屋が店を開けている。信号に車が足止めを食らうのをよそ眼に、電車は自分だけのために敷かれたレールを行く。朝焼けの街はすでに動き出していた。
高校へ向かう道中、シゲはそんな街の日常が目に留まる。これまではそんなこと気にもしなかったというのに。
理由は単純明快でシゲに余裕が生まれていた。隠し事をする人間は秘密が露見しないように気を張っている。その秘密が大きいほど神経をすり減らすものだ。そしてなりよりも隠し事は隠し続けなければならない。自らを晒す限り、休まることはないのだ。
そんな日々を送ってきたシゲにとってはそばにある日常に構っている暇はなかった。だから今になって当たり前のことが見えるようになっている。世の中の人がいう普通は、余裕を持って生きている人だけに共有されているわけだ。彼らにとっての普通はシゲにとっての普通ではないし、シゲにとっての普通は彼らにとって普通ではない。シオンのいう理解がどれほど難しいものかをシゲは知っていた。
「おっす。小堂、おはよう」
そのためシゲは困惑してしまうのだ。理解し合えないと思っていた人間に挨拶をされてしまうと。
高校へ到着して早々、シゲに挨拶してきたのはクラスメイトの野球部男子だ。頭に芝のように毛を生やしたデリカシーのない男で、決して相容れないと一方的にシゲが苦手だった男だった。
「あ、ああ。おはよう
「おお? やっと名前覚えたかよ。体調どうだ」
「いつも通りだよ。毎回聞くな、ソレ。ていうか病気でも何でもなかったんだぞ? 俺は別に心臓取っただけだっての」
「普通心臓取ったら死ぬんだっつーの……ま、元気そうならいいわ。じゃな」
朝練のランニング途中だったらしく柴山はさっさと練習へと戻っていった。シゲはぼりぼりと頭をかき、そそくさと教室へと向かった。
「おはようございます、シゲ」
扉を開ければいつものようにシオンが顔を上げてシゲに挨拶をしてくれる。風に揺れる髪が太陽の光を照り返して煌めく。シゲだけに向けられた朗らかな笑顔は実に贅沢だとシゲはにやけそうになる頬を抑えた。
「おはようシオン」
「どうしたんですかシゲ? ニヤニヤして。朝からいいことでも?」
「うん。たった今ね」
「やだ、もう。シゲったら」
朝はこうしてシオンとイチャイチャする。ぐいぐい来る癖にシオンは変なところで恥ずかしがり屋で、クラスメイトたちには交際していることを隠していた。シゲは彼女が可愛いことを自慢するような性質ではない。むしろ独占したい人間だった。なのでひっそりこうして誰もいない空間で惚気るのだ。
「でも本当にそれだけですか?」
「ほんとにそれだけだよ。あとはさっき柴山と話したくらいで」
「ほら! やっぱりいいことあったんじゃないですか」
「いいことなもんか。朝から野郎と見つめ合うなんざ罰ゲームだ」
「そんなこと言って、ちゃんと柴山さんの名前覚えたじゃないですか」
シゲは違うと言おうとして言い淀む。何も違くなかったからだ。
だが認めたら負けなような気がしてシゲは意地を張った。
「べ、別に。芝頭だから覚えやすかっただけだよ」
「ふふ。そういうことにしときます……ところでシゲ。先ほどの言い方だと野郎じゃなければいいみたいな、そう。女の子なら歓迎みたいな言い方でしたね? 浮気は許しませんよ?」
「しないって、しないしない」
しない以前にできない。そう答えたなら、できたらやるんじゃないですかと怒りそうだとシゲは言葉を選んだ。シオンに嘘はつきたくないが、嘘じゃなければ何でもいいんだとシゲはその辺りがかなり大雑把になっている。柴山の件に関しても芝頭で柴山と覚えやすかった。
そうして語るうちにすぐにちらほらとクラスメイトたちが登校してきて、挨拶したりしなかったり。授業をある程度真面目に受けて放課後になってと最近のシゲはそんな穏やかな日々を送っていた。
そして今日は図書委員の仕事の日。シゲは二、三週間ぶりにオミと言葉を交わした。
「よぉ、こんにちわだな。オミ」
「こんちわっす、シゲ先輩。何すか何スか、今日は随分と機嫌がいいっすね……というか見たっすよ例の記事。こんな隠し事してたなんて知らなかったすよー! 言ってくれても良かったじゃないっすかー!」
図書室に入って来るなり文句を言うオミにシゲは苦笑する。実際、何かのタイミングが違っていればオミに話していた可能性は高い。シゲとて心臓が二つあった記事を自分から出すように動くなんて思いもしなかったのだから、記事に関しては事前に伝えられるはずもないのだが。
「ま、いろいろあってな。悪かったよ話さなかったのは」
「まーシゲ先輩にはなんかあるとは思ってたっすけどね。正直想像以上だったっす」
「普通そうだろうなぁ。いないだろ普通、心臓二つあるやつとか」
「自分でいうんすかソレ……」
ドン引きするオミだが、シゲは自虐に関して何も感じていない。そもそも自分自身が何故と思うのだから他人からすれば余計にそうだろうと思うだろうなーという認識だ。苦労して来たのは間違いないが、それは心臓が二つあることよりもそのことをネタにされることに対してだ。正義漢にそんな卑下することはないんだと熱弁されたとしてシゲは首を傾げることだろう。
人の抱える悩みに対して、個々の感じ方はまさに千差万別なのだ。
「で、シゲ先輩。その後はどうなんすかー? 例の深窓の令嬢さんとは」
「ああ。結婚しようってプロポーズした」
「おっっっも!?」
「何だとコラ。お前がアドバイスしたんだろが」
「ええ? これ私が悪いんすか……? アクセルを踏め的なアドバイスはした気がするんすけど、どうしてブレーキ取っ払っちゃうんすか」
「別にいいだろ。成功したんだし」
「したんすか!?」
「あ、しまった。これ内緒だった……悪いオミ、忘れてくれ」
「無理なんですけど!?」
オミと和気あいあいと話す。まぁ、シゲがそんな気分なだけな可能性が高いが、そんな穏やかな日々が続いていた。
だがそれは嵐の前の静けさだったとすぐに知る。夕焼けに雨雲がかかり始めていた。
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