海底からの誘い
神島廃刑務所正門 12:42
断崖の階段を登り切ると、絶壁の上に出た。コンクリートの支柱と鎖を繋いだ簡易的な柵があるだけで、海を間近に見下ろすことができた。海風と波の音が一際大きく木霊する。
「桟橋があんなに遠くに見える」
真里がおそるおそる身を乗り出し、漁船を下りた桟橋を指差す。漁船は木の葉のように波に揺れている。
「ずいぶん高い所へ上がってきたな」
海を見ていると吸い込まれそうな錯覚に陥り、智也は慌てて後退った。
「崖は高さ三十メートルありますよ。脱獄囚がここから飛び降りたことがあるそうですが、周辺は岩場も多く、遺体は無惨な状態だったそうです」
福原の話に海を眺めていた人見と秋山は柵から身を引く。直下の海面が黒ずんで見えるのは岩場が広がっているためだ。崖の下は水深が浅い。飛び込もうものなら死が待っている。
「神島刑務所は海と高い塀に囲まれた脱獄不能の監獄です。もし仮に海に飛び込んで生き延びたとしても、海流に流され陸地に到達できなかったといいます。この刑務所を脱獄できた囚人はいないと言われています」
「脱獄不可能な監獄か、サンフランシスコのアルカトラズ刑務所みたいだな」
火鳥が興味深く頷く。アルカトラズ刑務所はサンフランシスコ湾内に浮かぶ小島に作られた連邦刑務所で、かつては軍事要塞でもあった。映画やドラマの舞台にもなる有名な刑務所だ。
「アルカトラズ刑務所も現在は観光地として一般公開されていますね」
アルカトラズは海鳥の生息地としても知られ、自然公園としても有名だ。中桐はここを日本のアルカトラズとして売り込もうと考えていた。
「アルカトラズのように歴史遺産として保護してほしいものだな」
河原はシャッターを切る手を止めて中桐をチラリと見やる。中桐は河原の皮肉を愛想笑いでかわし、福原に先に進むよう促す。
潮風に黒ずんだ煉瓦の壁に沿って歩くと、正門が見えてきた。
「すごいわ、まるで中世のお城みたい」
秋山は瀟洒な造りの正門をスマートフォンで撮影する。
正直、刑務所なんて陰気な場所にはまるで興味がなかった。普段デートで行きたい場所の希望を全く口にしたことのない人見がここに行きたいと声をかけてきた。
やむなく付き合ってみれば、ひどい田舎の島に連れて来られて退屈そのものだった。しかし、この美しい建築の正門を見て初めてテンションが上がった。
はしゃぐ秋山の様子に人見はホッと安堵する。
「ここは明治五大監獄の流れを汲む施設になるんですか」
火鳥は正門を見上げる。
両側に丸屋根の見張り塔、鉄柵上部にはアーチが設えてあり、西洋の城門を思わせる。アーチの下の丸窓にはステンドグラスが嵌め込まれており、アンティークのランプがぶら下がっていた。
「俺も千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島すべてをまわったが、よく似ている」
廃墟写真が専門である河原は、これは山室禮次郎の設計に違いないと頷く。
「神島刑務所も山室禮次郎が設計したと言われています。しかし、この刑務所につきまとう忌まわしい噂や不名誉な末路から、山室はここを設計した事実を闇に葬ったとされています」
福原が錆の浮いた鉄柵を押す。ギギ、と重苦しい音がして柵が開く。
「ようこそ、神島刑務所へ」
***
神島刑務所 桟橋 12:58
段上は桟橋に停泊した船の上で一服を終え、吸い殻を空き缶に押し込んだ。ツアー客を拾いに来るのは午後四時、その合間にもう一組客を連れてくることになっている。神室港の桟橋で待っているはずだ。
ここ数年密かな話題になったことで、神島廃刑務所への上陸を希望するものが神室島を訪れるようになった。死や暴虐に関わる場所を訪問する観光はダークツーリズムというらしい。
本土の船乗りは島を怖れて金を積まれても着岸しない。段上は何組かの上陸の手助けをしてやった。彼らはネットでの下らない名誉のために必死なのだ。ある程度足元を見ても金を払った。
昨年は若者三人を運んでやった。男二人、女一人、友達同士で動画を撮影するんだと張り切っていた。翌朝、彼らとの約束の時間に迎えにきたが、二時間待っても来なかった。撮影に飽きて夜の間に別の船でも呼んで帰ったのだろうか。
往復分の料金はすでにもらっていたので文句は無かった
ツアーが始まれば、個人客にふっかけることはできないが安定した収入が手に入る。段上は皮算用ににんまりと唇と緩める。
エンジンのスイッチを押すと、始動音がするものの稼働しない。何度も押してみるが、エンジンが入らない。
「まいったな」
港に戻らねばならないが、船が動かせないことにはどうにもならない。エンジンオイルはこの間替えたばかりだ。段上は苛立ちながら操縦席から離れ、エンジンを確認する。
「うおっ、何だ」
突然、船が揺れた。段上は慌ててデッキを踏みしめる。海はやや風があるものの、波は穏やかだ。何かにぶつかったのだろうか。いや、この辺は大型海洋生物の縄張りでは無いはずだ。
また船が揺れ、今度は立っていることもできず段上はデッキに尻もちをついた。
「くっそ、何なんだ」
忌々しげに舌打ちをする。
ふと、船の縁に何かがへばりついていることに気が付いた。
「なんだありゃ」
段上は眉根をしかめながら縁に近付いていく。最初はタオルでも引っかかっているのかと思った。目を凝らすと、それは青白い人間の手だった。
「ひえっ」
段上は叫び声を上げながら飛びのいてまた尻もちをついた。
膨張した手は五本の指があり、いくつかは爪が剥がれかかっている。ぶよぶよの皮膚はところどころ破れて白く変色した繊維が剥き出しになっていた。
段上は座礁した仲間の漁師が水死体で浜辺に打ち上げられたのを見たことがある。まさに今船縁を掴む手は水死体のそれだ。
死体が何かの拍子で引っかかったのだろうか。
段上は銛を持ち、おそるおそる船縁に近付いていく。すると、また船がぐらりと揺れた。
「ひぃっ」
また別の手が船縁を掴んだ。引っかかったというよりも、意思を持って掴んだように見えた
「なんなんだよ」
段上は震えながら銛で船縁にしがみつく手を突いた。柔らかい肉を突く手応えはあったものの、手は微動だにしない。
奥歯がガチガチ音を立てて震えている。段上は船縁を覗き込む。その手首には太い鉄の手錠をつけていた。それが鎖で連結されている。海面にゆらゆらと海藻のように髪の毛が揺らめいている。それが、顔を上げた。
「ぎゃぁあああ」
段上は悲鳴を上げてデッキに転がった。膨張した顔は鼻がもげており、濁った片目がこちらを見上げていた。
段上は恐怖に震えて立ち上がることができない。
次々に船縁に手が増えていく。そして、漁船を揺らし始めた。
「やめろ、やめろ・・・」
恐怖に喉がカラカラで声は掠れている。段上はゆるゆると首を振る。船の揺れは大きくなり、鎖が船体とぶつかり合う鈍い音が聞こえる。
そしてついに船は大きく揺れ、転覆した。
「うわああっ」
段上は海に投げ出された。泳いでもここを離れなければ。泳ぎは得意だ。そうれなければ島で漁師などやっていられない。しかし、恐怖のあまり、手足が硬直していた。
呼吸のリズムも忘れ、酸欠に陥る。
足首を掴まれた。海中に鎖で繋がれた男たちの姿が見えた。どんどん身体が水底に引き込まれていく。
思い切り男の頭を蹴った。頭皮がずるりと剥けて頭蓋骨が露わになった。腕を腰を別の手が掴む。肺の中に水が浸透していくのを感じながら、段上は最期の息を吐き出した。
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