第六章 廃刑務所からの脱出

地下ドックへ

 血肉を満たしたプールが生き物のように波打ち始めた。プールの容積が増し、血が溢れ出す。靴元に打ち寄せるドス黒い血に水瀬はヒッと声を上げて飛びのいた。


「ここにはもう用は無い、逃げよう」

 火鳥がスイングドアを開ける。研究施設の蛇口から赤い血が流れ始め、シンクを真っ赤に染めている。

 通路に出てエレベーターのボタンを押すと、開いた扉から血がどろりと流れ出した。ボタンからも血が滲み出し、滴り落ちている。

「エレベーターが使えない」

 智也は青ざめる。地上に戻る手段はこのエレベーターのみだ。


 天井のパイプや通気口からも血が噴き出している。このままだと呪われた血の海で溺れ死んでしまう。

「どうしよう、遙兄」

 真里が火鳥の袖を掴む。今にも泣き出しそうなのを必死で堪えている。

 火鳥は深呼吸をして、所長室で見た刑務所の見取り図を思い出す。こんな巨大な研究施設に出入りする通路が、あのエレベーターだけのはずはない。

 火鳥は何か閃いたらしく、真里の顔を見つめる。


「真里は管理棟から逃げるとき、階段の下で掠われたと言ったな」

「うん、確かそう」

 火鳥は管理棟と精神医療棟の位置関係をもう一度脳裏に思い浮かべる。そして、研究施設の奥に走り出す。コンクリートの床にも血の浸食が始まった。滑る血で靴が滑りそうになり、慌てて体勢を立て直す。

 研究施設の奥に大きな観音開きの扉があった。鍵は内側からかかっている。鍵を外し、扉を開けると、赤い絨毯が敷き詰められた通路が延びている。


「行こう、この先にきっと出口がある」

 全員が火鳥に続く。

「一体どこに繋がっているんだ」

 水瀬は周囲を見回す。通路の左右にはアンティークのランプが等間隔で設置されている。管理棟の通路を思わせるつくりだ。

 突き当たりに階段が見えた。階段を駆け上ると、彫刻の施された重厚な木製の扉があった。扉は向こう側から鍵がかかっている。


「くそっ、ここまで来て」

 水瀬が肩で体当たりをする。しかし、扉はガタンと音を立てるものの、開く気配はない。火鳥と智也、時岡も扉を何度も蹴る。

「どうしよう、あそこには戻りたくない」

 真里は目に涙を溜めて頭を振る。

「もう一度、全員で蹴破ろう」

 男四名が扉から一歩下がる。そして、扉に向かって走る。


 突然、外から扉が開いた。火鳥と水瀬、智也は一緒にずっこける。

「あんたたちか、一体こんなところで何してる」

 そこには驚いた顔の河原が立っていた。扉を開けたのは河原だった。

 扉の先は管理棟の一階通路だった。扉は階段下についており、研究施設への秘密の通路として使われていたようだ。

 真里が忽然と姿を消したのは、誘拐者がこの通路を使ったからだった。


「この刑務所は崩壊する、逃げましょう」

 火鳥は管理棟の玄関ホールに走る。ドアノブに手をかけた瞬間、扉のステンドグラスに血が流れ始めた。

 美しいガラス細工を怨念で塗り込めるように血は流れ続ける。

「一体何なんだよこの忌々しい血は」

 水瀬が悪態をつく。今や刑務所全体が血に汚染されている。


「ここからは出られない。別の出口は…収容棟の突き当たりだ」

 火鳥はイ棟通路を駆け抜ける。智也は真理の手を引いている。今度は絶対に離さない、握る手に力を込める。

 血が柵を伝い床を暗い赤に染めていく。便器からも血が溢れ出している。


 イ棟突き当たりの扉を開け放つ。収容棟から飛び出し、運動場に出た。

「うおっ、お、おっかねぇ」

 水瀬が絶叫する。運動場には囚人服を着た坊主頭の男たちが整列していた。その数五百、いやもっといるだろう。皆虚ろな目でこちらを見つめている。


 男の一人が日軍式の敬礼をした。他の者たちもそれに倣う。

「もしかして、彼らは儀式の犠牲者じゃないだろうか」

 智也は複雑な想いで彼らの姿を見つめる。地下のガラスポッドに心臓を貯蔵されていたために、浮かばれぬ魂が亡霊の姿で無念を訴えていたのかもしれない。


「これで彼らも呪縛から解き放たれるわね」

 金村は静かな口調で呟く。その横で水瀬は泡を吹いていた。

 囚人たちの列に混じって現代の服装の若者たちの姿があった。中桐に早稲田、秋山も青ざめた顔で無言の列に混じっていた。


 見上げた空は夜明け前のほの昏さを湛えている。蒼い月の光が血に染まる刑務所を黒々と照らしていた。

「桟橋までの階段は崩れ落ちていて、迎えも来ないだろう」

 どうやって逃げるんだ、と河原は怪訝な顔をする。

 火鳥は倉庫脇の塔に注目する。塔へ走り、鉄の扉を開けると、エレベーターがあった。

「やはりここにあると思った」

 倉庫の近くに物資を運ぶ経路があるはずと踏んでいた。このエレベーターで船からの物資を引き上げていたに違いない。


 電気は通っていないが、停電時には手動で動かせる仕組みになっている。全員が乗り込んだことを確認し、智也がハンドルを回す。エレベーターはゆっくりと地階へ降りてゆく。

 到着したのは自然の地形をそのまま利用した地下ドックだった。波のぶつかる音が近くに聞こえている。

 洞窟の壁に沿って歩いていくと、船着き場があり出口の向こうに海が見えた。


「やった、ここから出られる」

 智也はホッと安堵する。

「船はあれか」

 古びたボートが転がっている。しかも手こぎボートだ。

「こんなのに乗ったら転覆しちまうよ」

 河原は文句を言いながらもボートを海に浮かべる。穴が開いていないことを確認し、真里の手を引いた。意外と優しいところがあるものだ、と火鳥は感心する。


 それから金村を乗せ、時岡に智也、火鳥と水瀬も乗り込んだ。河原はボートの操縦に慣れているらしく、堂に入った漕ぎ方で海に乗り出していく。

 ボートが島を離れるにつれ、疲れがどっと吹き出して誰もが黙り込んだ。

「ありゃ一体なんだ」

 河原は神島刑務所を見上げ、驚愕の声を上げる。

 刑務所の窓という窓から大量の血が流れ出し、建物を黒く染めていた。崖の上からも溢れた血が流れ落ちていく。


「長い呪いがこれで解かれたのかしら」

 金村が血塗れの刑務所を見つめながら呟く。

「そうだといいな」

 真里も頷いた。

 不意に、ボートがぐらりと揺れた。風も無く、波も穏やかなはずだ。気のせいかと河原はボートをこぎ続ける。

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