海に棲む魔物

 今度は気のせいではなかった。

 波のうねりにボートが大きく揺れる。

「ボートの下に何かいるぞ」

 水瀬が叫ぶ。暗い海の中に真っ黒い影が横切ったのが見えた。

「ここは内海だ、鯨などの大型はいないはずだ」

 火鳥も海面を覗き込む。黒い波間に白い目がギョロリとこちらを向いた。


 黒い影がボートの下を通り過ぎ、目の前で跳ねた。鯨と見まごう巨大な身体に黒い鋼のような鱗がついている。体躯は長く、古代魚の思わせる姿だ。

「あんなの見たことがない」

 河原は目を見開き、呆然としている。

悪樓あくるだ」

 智也の言葉に真理が首を傾げる。聞いたことが無い名前だ。


「悪樓は日本神話に登場する巨大魚だ。瀬戸内海にいて、時々暴れては船を転覆させる」

 悪樓の動きで波が立ち、ボートが大きく揺れる。

「最後の最後で何であんなのが出てきたんだ」

 水瀬は頭を抱える。せっかく地獄のような刑務所から脱出できたというのに、魚の餌になるなど勘弁だ。


「神島刑務所の瘴気に誘われたのかもしれないわね」

 金村が刑務所の断崖を指差す。ドス黒い血が崖を伝い、海に流れ出している。撒き餌の役割を果たしているということか。

「化け物魚、どうやって倒すんだよ」

 水瀬はボートの縁に掴まりながら叫ぶ。

「し、知らない」

 智也は青ざめる。


「あ、あれは」

 時岡の声に顔を上げると、島のドックから哨戒艇がこちらに向かってくるのが見えた。

 ライトはこのボートを照らしている。哨戒艇に乗っているのは亡霊に成り果てた本郷だ。制服の胸元を血まみれにして、恐ろしい形相でこちらを睨んでいる。


 本郷が腕を掲げた。看守が機銃でボートを狙い撃ちする。水面に着弾し、水が跳ね上がる。

「きゃっ」

 智也は咄嗟に真理の頭を胸に抱くように守る。

「マジかよっ」

 水瀬は叫ぶ。

 手漕ぎボートはとても逃げきれない。ただ身を竦めるしかない。哨戒艇はスピードを上げて近づいてくる。



「貴様ら逃がさんぞ、新たに次の贄を集めるために働いてもらう」

 本郷は歯を剥き出しにして嘲笑う。本郷の命令で看守が機銃を向けボートを狙う。この距離では避けることができない。

「一か八か、海に飛び込むか」

 火鳥は考えたが、海には巨大魚悪樓が回遊している。撃たれるか、食われるか、火鳥は智也と真理の肩を抱く。


 突然、海底から悪樓が飛び出した。

 洪水のような水飛沫にボートは激しく揺れ、全員が必死で縁にしがみつく。

「うおおおおっ」

 悪樓はその巨大な背中で哨戒艇を突き上げた。本郷と看守たちは宙に舞う。

 海面から顔を出した悪樓が本郷たちを飲み込んだ。そしてそのまま深い水底へと姿を消した。明け方の海は静寂を取り戻す。


 目の前で起きたことが俄かに信じられず、揺れるボートの上で呆然とする。

「た、助かったのか」

 水瀬が震える声で呟く。

「そのようだな、奴の好物は穢れた魂だったらしい」

 火鳥は黒縁眼鏡をくいと持ち上げる。

「良かった」

 真理はホッと安堵のため息をつく。ふと気がつくと足元が水で濡れている。

 先程の機銃掃射で船体に穴が空いている。


「まずいぞ、こんなところで転覆したら沖へ流されてしまう」

 河原は慌ててオールを漕ぐが、浸水したボートはなかなか進まない。

 水瀬が穴を探してハンカチを詰めようとするが、無駄だった。

「くそっ、ここまで無事だったのに、これまでかよ」

 

「水瀬のアニキ」

 水瀬を呼ぶ声がした。神室島の裏側から漁船がこちらに向かって近づいてくる。手を振るのは黒ジャージのジョーと、船を操縦するのは白ジャージのレイだ。

「お前ら、助けにきてくれたのか」

「お待たせしました、漁船を借りるのに手こずって」

 レイがボートに漁船を横付けする。ジョーの手助けでボートの乗組員は順番に漁船に飛び乗る。全員が漁船に乗り終えたところでボートはゆっくりと海へ沈んでいった。


 空が白み始めてきた。

 島影から朝陽が登る。

「生きてて良かった」

 水瀬はしみじみ呟く。陽の光を浴びた薄雲は輝き、水面は眩く煌めいている。

「ああ、まったくだ」

 火鳥も頷く。煤で真っ黒な顔を見て互いに吹き出した。

 生き残った者たちは美しい瀬戸内の朝焼けをただ無心で眺めていた。


***


 水瀬の舎弟レイの操縦する漁船で神室漁港に帰ってきた。

 温かい風呂につかり民宿の朝食をかき込んだら、ようやく生き返った気分だ。

 河原が晴野リゾートに電話すると担当者は驚愕し、すぐに帰りの船を手配するという。

 神島廃刑務所には警察が上陸し、捜査が始まっているということだった。これから事情聴取があるだろうが、あの悪夢のような出来事をどこまで信じてもらえるやら。


 船を待つ桟橋で、時岡は一人で佇んでいる。

「時岡さん」

「ああ、真理さん。皆さんにもお世話になりました。迷惑かけちゃって、すみません」

「結果オーライですよ、それに大活躍したじゃないですか」

 真理は控えめに微笑み、桟橋の向こうに広がる海を見つめる。

 穏やかな波の音が心地よい。青く光る海は恐ろしかった夜の体験を一瞬でも忘れさせてくれる気がする。


「僕はしばらく引きこもりでね、でもこの旅は人生を見つめ直す機会になった。もう一度やりたいことに挑戦してみようと思うよ」

 真理はそれは良いね、と頷く。時岡から実は小説家を目指している、と聞いて思わぬ共通項に話が弾んでいた。


 水瀬はコンクリートブロックに腰掛け、タバコを吹かしている。その傍らには鬼切り国光があった。

「よう、ヘタレヤクザ」

 火鳥がブロックを背にしてもたれかかる。

「おう、生意気な探偵さんよ、真理ちゃんから聞いて今知ったぜ」

 水瀬は気を悪くする様子もなく青空に煙を吐き出す。


「オヤジへの義理は果たせた、礼をいう」

 水瀬は鬼切り国光を見やる。死にかけの組長にやるのは苦労に見合わない気もしたが、しがない組員の定めだ。

「俺からも礼を言うよ」

 火鳥の殊勝な態度に水瀬は内心驚く。

 言っておくが、と火鳥は水瀬の鼻っ面に人差し指を突きつける。

「俺の親父はヤクザの揉め事に巻き込まれて死んだ。だから、ヤクザなんて嫌いだ」

 火鳥はそれだけ言って去っていった。

「食えないやつだ」

 水瀬は笑いながらフンと鼻を鳴らした。


 神室港の桟橋に本土からの漁船がやってきた。行きと違って定員には余裕があり、水瀬と舎弟たちも乗ることができた。

 漁船に寄り添うように飛んでいたカモメたちが島へ戻っていく。


「八十年の呪いは解けたのかな」

 智也が誰にともなく呟く。

「穢れた心を持つ人間が島を地獄に変えてしまった。しかし、あの島には昔から住む神がいる。きっと時間をかけて本来の姿を取り戻すだろう」

 火鳥は漁船から遠ざかる神室島を見つめる。


 燦々と輝く午後の太陽に照らされて、海は目映い光に満ちている。遠ざかる神室島は瀬戸内の島影に消えていった。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る