怒りのハンマー再来

 一際大きな打撃音の後、扉の外は静まり返った。誰もが呼吸を止め、身を寄せ合う者の心臓の鼓動が聞こえるほどだ。


「諦めたのかな、あいつ」

 真里が声を潜めて呟く。

「いや、油断はならない」

 火鳥は木製の観音扉を注視し続ける。水瀬は血色を無くし、恐怖に固まっている。


「このままここに閉じこもるのか」

 河原がツアー責任者としてこの状況をどうにかしろと中桐に詰め寄る。中桐は眉間をひくつかせて河原を睨みつける。

「こんな状況でツアーも何もないでしょう。ここは皆で協力して乗り切るしかありません」

 中桐の真っ当な言葉に、河原はバツが悪そうに黙り込む。


 ドン、と鈍い音が響く。先ほどまでの扉への衝撃ではない。どこかくぐもった音だ。

「まだいるわ」

 秋山は怯えて泣きそうな顔をしている。

 ドン、ドン、と衝撃音は次第に大きくなり、所長室に振動が走る。天井が揺れ、埃が舞い落ちてきた。


「へっくしょん」

 水瀬は鼻の不快感が抑えられずに、派手なくしゃみをする。

「ヒロシ、何やってんのよ、あいつに気付かれるじゃない」

 真里が水瀬の背中をバシンと叩く。智也は慌てて真里を止める。ヤクザ相手に物怖じしないのは火鳥と同じだ。


「へっくしょん、おぉ悪ぃ、小学生からアレルギー性鼻炎なんだ」

 水瀬のくしゃみは止らない。金村はくしゃみの飛沫を避けてそっと遠ざかる。真里は水瀬にポケットティッシュを手渡した。

「耳鼻科に行けよ」

 火鳥は呆れている。河原と中桐は迷惑そうにあからさまに顔を顰める。

 水瀬のくしゃみがあろうが無かろうか、ここにいることは溶接工にはバレているだろう。


 水瀬の一際大きなくしゃみとともに、扉の横の壁に亀裂が入った。

「隣の部屋の壁を壊してる」

 智也が叫ぶ。衝撃は大きくなり、壁に穴が開いた。壁の向こうに溶接工の鉄の仮面が覗いている。

「きゃああっ」

 恐怖に耐えきれず、秋山が絶叫する。真里も頭を抱えて怯えている。


「これで押さえ込めないか」

 河原がソファを動かしてバリケードにしようと提案する。

「無理だ、奴のバカ力にごり押しされる」

 壁に穴が空き、奴がここへ侵入してくるのは時間の問題だ。火鳥は中桐に扉の鍵を開けるよう指示する。

「扉を、ですか」

 溶接工は今、隣の役員室の壁を壊している。所長室に侵入したタイミングで扉から逃げ出せば、かわすことができる。


「わかりました」

 中桐は扉の鍵を開けた。しかし、まだだ。扉を開けて逃げることを悟られると、先回りされてしまう。

「智也、真里、合図をしたら走れ」

 火鳥は扉を指差す。

「遙兄はどうするの」

「俺はここで奴を引き付ける」

「だめ、そんなの」

 真里は必死で年上の従兄にしがみつく。智也もここに残ると言い出した。


「行きましょう、この人は大丈夫よ」

 金村が真里の手を引く。真里は金村の手を振り払う。何を根拠に、と思ったがその目には怯えも迷いもなく、ハッと息を呑む。金村はにこりと笑い、次に智也の顔を見据えた。

「あなたがいないと誰が妹を守るの」

 叱りつけるような口調に、智也は折れた。真里と智也は扉の前で火鳥の合図を待つ。壁の穴はどんどん大きくなり、今にも崩壊しそうだ。


「仕方ねえな、俺も付き合ってやるよ」

 水瀬が背中からドスを抜き、構える。

「ヘタレヤクザがどういう風の吹き回しだ」

「お前みたいなヒョロに任せていられるか、それに女の前で無様をさらすのは男じゃねえ」

 水瀬は人指し指で鼻水を拭う。その指は恐怖にぷるぷる震えている。


「グゥオオオオ」

 雄叫びが響き渡り、渾身を思わせる一撃で壁が吹っ飛んだ。溶接工が肩で壁を破壊しながら所長室に踏み込んでくる。火鳥は行け、と顎で合図をした。中桐が所長室の観音扉を開け放つ。

 秋山が悲鳴を上げながら真っ先に駆け出した。中桐と福原、河原も走り出す。時岡に金村、真里、智也も後を追う。


 火鳥は二人の姿が階段に消えていったのを見届け、溶接工に対峙する。鉄仮面と前掛けにはドス黒い血痕がべったりとこびりついている。息をするたび逞しい胸筋が上下に波打ち、獣のような呼吸音が轟く。


「何か策はあるのか」

 水瀬が火鳥に尋ねる。ドスを握る手にじわり汗が滲む。

「無い」

 即答する火鳥に水瀬は絶句した。

 火鳥は溶接工から目線を逸らさない。溶接工がハンマーを振り上げる。頭上のシャンデリアが破壊され、ガラス片が飛び散る。溶接工はそれをものともせず、ハンマーを振り下ろす。


 火鳥は窓際に待避し、溶接工を挑発する。

「こっちだ、でくのぼう」

 溶接工が火鳥の方を向き、大股で近付いてくる。仮面のせいで視界が狭い。死角から近付いた水瀬が溶接工の大腿に思い切りドスを突き立てた。

 肉を抉る手応えはあった。しかし、怯みもしなければ出血もない。ドスを引き抜くと、黒い汁がジワリと滲み出た。遅れて匂う腐臭に水瀬は顔をしかめる。


「こいつ、人間じゃねえ」

 血が出るなら殺せるだろうが、これは血ではない。水瀬は愛用のドスについた腐汁を慌ててソファで拭う。

「ならば容赦はいらないな」

 火鳥はずり落ちた黒縁眼鏡をくいと持ち上げる。溶接工は窓際に貼り付く火鳥に近付いていく。

 ハンマーを振りかぶり、思い切り横に薙いだ。執務机で火鳥を押しつぶそうという算段だ。火鳥は椅子を踏み台にして机に飛び乗り、溶接工の脇をすり抜けて所長室を逃げ出した。


「おい、逃げるのかよ火鳥」

 逃げ足の速さに呆気に取られた水瀬は驚いて後を追う。

「皆が逃げる時間は稼いだ。これ以上化け物の相手をしていられるか」

 火鳥は後ろも振り返らず階段を駆け下りる。雑居房の並ぶイ棟へ駆け込み、出口へ向かって走る。火鳥は鉄扉を開け放ち、突然立ち止まった。


「どうした」

 水瀬は立ち止まったままの火鳥に苛立つ。背後から重量級の足音が近付いてくる。

「俺がギリギリまで奴の気を引く。奴が出口に近づいたら」

 火鳥は雑居房の鉄格子に目線を向ける。その考えを理解した水瀬は頷いて雑居房に身を潜めた。


 火鳥は開け放った鉄扉を背にして立つ。作戦が上手くいくかは運次第だ。

 通路に影がさす。火鳥を認識した溶接工は向きを変え、ハンマーを握り直し足早に近づいてくる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る