神島廃刑務所潜入レポート(3)

「逃げるぞ、早く」

 我に返った風斗はみどりの腕を掴み、恐怖にもつれる脚を引き摺るようにして走る。瓦礫につまづき、転びそうになりながらも玄関ホールの観音開きの扉を目指す。


 扉まで、もう少し。

 不意に背後から低い風切り音がして、目の前のドアに巨大なハンマーが叩き込まれた。

「きゃあああ」

 木片が派手に飛び散り、風太は思わず腕で顔を覆う。みどりの悲鳴に背後を振り返ると、巨漢の溶接工がすぐそこまで迫っている。

 黒いエプロンにぶらさげた錆び付いたペンチやはんだごてがぶつかりあって揺れているのが見えて、恐怖は絶頂に達する。


 目の前の扉はハンマーが文字通りめり込んで、塞がれてしまった。風斗は横に伸びる廊下に逃げ出した。みどりも半狂乱で泣き叫びながら後に続く。

 廊下の端に二階へ登る階段が見えた。足をかけたとたん、木製の階段は大きく軋む。留め具が崩壊した赤い絨毯に足を取られ、一緒に滑り落ちそうになりながらなんとか二階へ駆け上がる。


 二階は事務室が並んでいた。

「空き部屋に隠れよう」

 風斗がドアノブを捻ると、ノブの部品がごろりと絨毯に転がった。

「こっちも開かない」

 みどりが叫ぶ。

 廊下の突き当たりの部屋から明かりが漏れているのが見えた。あそこならドアが開いている。風斗は走り出す。


 ドアノブを掴んで引くと、あっさり扉が開いた。

「みどり、こっちだ」

 部屋に逃げ込み、正面の事務机の裏に回り込んで息を潜める。立派な洋風アンティークの机だ。椅子は革がぼろぼろに剥げているが、背もたれが高くクッションも良いものだ。

 天井からは傾きかけたアールデコ風のシャンデリアがぶら下がっている。机の前には応接セット、壁面には天井に届くほどの書架が設えてあった。


「いやに豪華な部屋だ。もしかしたら刑務所の所長の部屋だったのかもしれない」

 撮影できたら絵になる部屋だ。風斗はおかれた現実から逃避を始める自分に気が付いて、背筋に冷たいものが落ちる。

「そんなことどうだっていいわ。これからどうするのよ。蒼太が殺されちゃったよ」

 みどりは涙でぐちゃぐちゃの顔をはんかちで乱暴に拭う。自慢の化粧も涙と鼻水で台無しだ。マスカラが流れ落ちて黒い涙を流しているようだった。


 腐りかけた廊下が軋む音がする。重量級の怪人がこちらへ向かってやってくる。あいつはいったい何なんだ。刑務所の噂は本当だっただろうか。なんの躊躇いもなく、無抵抗の蒼太の頭をたたき割った。

 およそ人間とは思えない凶暴性を目の当たりにして、全身が恐怖に震えている。


 ドアの外で荒々しい破壊音が響く。溶接工が扉を次々に壊して隠れている自分たちを探しているのだ。みどりは唇を噛みしめ、頭を振る。ここで叫び声を上げたら奴に見つかってしまう。風斗は唇に人指し指を当て、声を出すなと指示する。


 一際大きな音に、部屋が振動した。溶接工が大股歩きで所長室に入ってきた。肩を上下させて呼吸をしながら応接セットの周囲をゆっくりと周る。風斗は恐怖に震えながらみどりを抱きしめた。できることなら守りたい。みどりも声を出さぬよう必死で歯を食いしばっている。

 溶接工はぴたりと立ち止まり周囲を見回していたが、やがて踵を返した。しかし、まだ油断はできない。


 みどりが風斗の腕から顔を上げた途端、喉を鳴らすようにヒッと叫んだ。

「みどり、声を出すなよ」

 風斗は命を危険に晒そうとしているみどりに苛立ちを覚える。みどりは震える指で窓枠の横にかかる絵画を指差した。

 唐草文様が彫刻された立派な額縁にかかった肖像画だ。軍服を着たカイゼル髭の男が冷ややかな目でこちらを見下ろしている。


「こ、こっちを見た」

 みどりは恐怖に目を見開いて怯えている。

「ただの絵だ」

 風斗はみどりを宥めようとするが、みどりは頭を振っていやいやをする。

 重い足音がスピードを上げて近付いてきた。溶接工に見つかった。


「窓から逃げるぞ」

 風斗は背後の窓を開け放つ。ここは二階だ、飛び降りれば骨折するかもしれない。しかし、あのハンマーに骨を叩き折られるよりはマシのように思えた。

「嫌よ、こんな高いところから飛ぶなんて」

 みどりはいよいよ錯乱している。溶接工が応接セットを蹴散らし、机の前まで迫っている。


 風斗は窓を開け放ち、木枠に足をかけた。溶接工がハンマーを思い切り横に振る。打撃を受けた机が猛スピードで壁にぶつかった。

「げふっ」

 重い机と壁に挟まれたみどりの細い身体が妙な形に折れ曲がり、塗ったくった赤い口紅よりも赤い鮮血が鼻から口から吹き出した。

 みどりは風斗にゆるゆると手を伸ばす。引っ張ろうにも、机に挟まれて抜け出すこともできない。すでに彼女の背骨は粉々に砕けているだろう。

 みどりの目から光が消えていく。風斗は迷わず窓から飛んだ。


 壁を這う蔦に必死で掴まった。蔦はゆっくりと剥がれ落ち、風斗を地上へと導いた。夜露に濡れた雑草が繁る地面に転がり、痛みも忘れて飛び起きた。

 所長室の窓を見上げると、溶接工がハンマーを振り上げるシルエットが映り、続いて曇った窓ガラスに血飛沫が大輪の花を咲かせた。


「うわあああ」

 風斗は泣き叫びながらがむしゃらに走った。高い塀に阻まれて、出口の方角はもうわからない。

 あの恐ろしい殺人鬼から逃げなくては。生きてここから脱出し、蛮行を世に公表しなくてはならない。

 これは絶対にバズる。クソ会社なんて辞めてやる、風斗は込み上げる笑いを抑えきれない。


 気が付けば、広場に出ていた。土を掘り返したのか、無数の穴が開いている。目の前に広がる奇妙な光景に、新たな恐怖心が沸き起こる。

「うわっ」

 足もとの穴にはいくつもの死体が無造作に投げ込まれていた。骸骨のようにガリガリにこけた頬、骨と皮だけの手足は木の枝のようだ。落ちくぼんだ目が虚空を見つめている。

 皆囚人服を着ていた。中には裸の死体もあった。これは冷めない悪夢なのか。


 背後に気配を感じて振り返る。スコップを持った大男がこちらを見下ろしていた。先ほどの溶接工に引けを取らないほどの筋肉ダルマだ。頭に麻布を被り、それを首の位置で荒縄でしばっている。片方だけ開けた穴から感情の無い暗い瞳が覗いていた。この墓穴はこいつが掘ったのだろう。

 風斗は逃げだそうとしたが盛り土に足をとられ、転倒する。墓掘り人が錆び付いたスコップを振り上げる。先端だけは掘り返す土で研磨されたのか、不気味な鈍色に光っている。


「や、やめっ」

 渾身の力で振り下ろされたスコップはまるでギロチンの歯のように風斗の膝を貫いた。

「ひぃぎゃあああっ」

 切断された足が墓穴に転がり落ちる。噴水のように吹き出す血を止めようと慌てて両手で押さえるが、痛みと絶望で意識は遠のいていく。

 これは、悪い夢だ。

 風斗は大地に身を投げた。厚い雲間から星の輝きが見えた。しかし、墓掘り人の巨体が視界を遮る。淀んだ目はまるで底知れぬ暗い墓穴のようだ。

 巨大なスコップが振りかぶられ、そして、無慈悲に振り下ろされた。

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