妄執の亡霊
五つの収容棟はすべて二階建てになっており、中央に廊下、両側に独房または雑居房がある。独房は木製扉、雑居房は鉄格子だ。二階廊下の中央は鉄格子が嵌まっており、天窓の光が一階まで入るように設計されている。
「イ、ロが雑居房、ハ、ニ、ホが独房になっています」
福原の説明通り、入り口の壁にそれぞれの棟の名前が掲げられていた。中桐によると、現在は比較的保存状態が良いイ棟とニ棟のみ見学できるよう改修しているという。
「では、通路を進んでみましょう」
福原の先導でツアー客は雑居房が並ぶイ棟の廊下を進んで行く。雑居房には二段ベッドが据え付けられている。緑色にペイントされていた壁がボロボロに剥がれ落ち、ブロック塀が覗いていた。
天井から降り注ぐ明るい陽光に、どこか現実離れした奇妙な感覚に陥る。
「雑居房と独房はどうやって振り分けされんるんですか」
智也が福原に尋ねる。
「基本的に雑居房は問題の少ない囚人、独房は問題ありの囚人という分け方です。独房は気楽かもしれませんが、かなり狭いんですよ。誰とも話ができませんし、孤独に耐えかねて自殺する者もいたそうです」
ここへ来てから死の匂いがする話ばかり聞かされている。真里は怯えているが、智也は興味津々だ。
ここへ足を踏み入れたとき、ひどい状態だったことを思い出す。狸や鼠などの野生動物が入り込み、房の中で死んでいるものだから死体と排泄物のひどい匂いに悩まされた。ここへ勝手に入り込んだ人間が残したであろうゴミも散乱していた。
各所で雨漏りがあり、じっとりした湿気に不快な匂いが増長され吐き気を催すほどだった。
モニターツアーに合わせて汚物やゴミを片付け、独房と雑居房をひとつずつ開放できるように準備を進めた。中桐はようやくここまでこぎ着けられた満足感浸っている。
モニターツアーはこのあとも三回を予定している。その後は旅行社と組んで団体ツアーを企画し、平行してホテルの改修計画を進める算段だ。万事順調に思えた。
「通路は約百メートル、その先にある扉は外への通用口です。食事や運動、就労は別の棟で行われていました」
元々興味の無い秋山は同じレイアウトで並ぶ雑居房の風景に飽きてきたようだ。福原の説明にひとつ大あくびをした。
「そういえば、河原さんは」
中桐が周囲を見回すと、河原の姿が見えない。先ほどまで熱心に雑居房や通路の写真を撮影していたはずだ。
「房の中でも撮影しているんじゃないの」
鉄格子は施錠されておらず、全開になっているところもあった。早稲田の言うとおりかもしれない。こんな一本道で迷うはずはないだろう。
もしかすると、他の棟へ勝手に行っているのかもしれない。あまり戻ってこないようなら探しにいかねば。
「やっぱり面倒をかけやがって」
中桐は早稲田にだけ聞こえるように悪態をついた。
***
河原は整備の進んでいないホ棟へ足を踏み入れていた。片付けをされた廃墟など何の面白みも無い。できるだけ手つかずの状態を撮影しておきたかった。その方が写真の価値も高まるというものだ。
ホ棟は両側に独房が並ぶ。隆起した床のコンクリートに蹴躓きながら歩みを進める。独房の扉は分厚い木製の扉で、目線の位置にのぞき窓と足もと近くに物を差入れる窓が設えられている。
老朽化した扉は外れかけたり、床に落ちているものもあった。腐食した天井の鉄格子がぶら下がり、危険な状態だ。この状態では一般人の見学は無理だろう。河原はあちこちにレンズを向け、シャッターを切る。
通路の奥で何かが蠢いた気がして、レンズから目を離した。迷い込んだ小動物ではなく、人間ほどの大きさだ。他のツアー客はイ棟にいるはずで、先回りして奥に行くことなどできないはずだ。
突然、館内のスピーカーからノイズに続いて大音量でサイレンの音が流れ始めた。
「な、なんだ一体」
音質の悪いレコードのように、途切れ途切れにノイズが入った不快な音だ。映画などで脱獄者が発生したときに鳴る音だが、一体誰がサイレンを鳴らしているのか。観光演出の一環なのだろうか。
不気味に思った河原がツアーに戻ろうとして背を向けたそとのき、背後でバンと荒々しい音がして反射的に振り返る。
通路の最奥の独房の部屋の扉が吹っ飛んで、床に転がった。そして重い足音を響かせて巨漢が姿を現わした。巨漢は自分を見据えている、ように思えた。
巨漢はゆっくりと歩き出す。二メートル近くはあるだろうか、遠目にも筋骨隆々の身体は迫力があった。四角い鉄板で顔を覆っており、手には巨大なハンマーを握り絞めている。あの鉄板は溶接工が使う保護具だ、なぜここでそんな物をつけた男がうろついているのか。
「あんた、ここの作業員か」
改修工事の作業をしているのだろう、きっとそうだ。河原はサイレンにかき消されないよう声を張り上げる。巨漢の溶接工は無言のまま、こちらに近付いてくる。
そして、威圧するように横の壁をハンマーで殴りつけた。壁の破片が通路に飛び散った。その暴力的な仕草に、河原は異常だとようやく気がつき、全身から血の気が引くのを感じた。
「ひ、ひえっ」
河原は短く叫んで通路を走り出す。背後の足音もスピードを上げてこちらに近付いてくる。振り返る余裕もない。河原はツアー客のいるイ棟へ逃げ込む。
「河原さん、どこへいらしてたんですか」
河原の姿を見つけた中桐がやや苛立ちながら叫ぶ。息を切らして駆け込んできた様子に、火鳥は只事ではない雰囲気を感じ取った。
「大男が襲ってくる、さっきホ棟を覗きにいっていたら、サイレンと共に現われて」
河原の支離滅裂な説明に、中桐と早稲田は顔を見合わせる。あまりに興奮しているため、目は血走り口の端から泡を吹いている。
「なんだあのサイレンは、非常事態なのか」
「いえ、それが何故サイレンが鳴ったのか我々にもわからないんです。電灯など、一部は通電しているのですが、音響までは改修に手がまわっていません」
「じゃあ、あのデカブツは何だ。俺を殺そうと」
河原はハッと気がついて背後を振り向く。溶接工が襲ってくる気配はない。早稲田は呆れた顔で河原を見つめている。
「来るわ」
金村が低い声で呟く。火鳥も頭痛に顔を歪める。真里と智也は不安げに寄り添っている。
「きゃあっ」
早稲田の鋭い悲鳴が響く。鉄格子の隙間から伸びた血色の失せた手がジャケットの裾を掴んでいた。早稲田は半狂乱でそれを振りほどき、後退る。
「これは一体」
人見は青ざめて鉄格子から距離を取る。雑居房の鉄格子から無数の腕が伸びて何かを掴もうと蠢いている。
「なにこれ、ゆ、幽霊なの」
真里は半泣きで智也を見上げる。智也にも何が起きているのか意味が分からない。
「上だっ」
火鳥が真里と智也の腕を掴んで引き寄せる。二階通路からハンマーを持った大男が振ってきた。ズン、と重い音がして、着地点のブロックにヒビが入る。
「はは、こいつも幽霊かな、ずいぶん威勢がいい」
智也が半笑いで溶接工を指さす。
「いや、こいつは実体がある」
火鳥は溶接工の足もとを見やる。そこには薄い日差しが作り出した影ができていた。
「うわああっ」
河原の叫びで皆我に返る。溶接工は恐怖に身動きができない秋山目がけてハンマーを振り下ろした。
「きゃああっ」
ハンマーがぶつかろうという瞬間、人見が秋山を突き飛ばす。秋山は転倒し、空振りしたハンマーは足もとに振り下ろされた。コンクリートの破片が散乱し、秋山は脳天をつくような悲鳴を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます