神室島の夜は更けていく
控えめなノックの音に、中桐は手元の行程表から顔を上げた。夜11時だ。参加者がクレームを言いつけにきたのだろうか。添乗員には休みなどない。小さく舌打ちをしてドアを開けると、ピンク色の長袖Tシャツに黒のスウェット姿の早稲田るりが立っていた。
風呂に入ったばかりなのか髪はしっとり濡れていたが、化粧は完璧に施してある。
「いいかな」
「ああ」
早稲田の甘えた声に、中桐は事務的な返事をして部屋に招き入れた。
6畳の狭い和室だ。早稲田は中桐の隣に膝を流して横座りをする。
小さなテーブルに広げているのは明日の行程表だ。早めの昼食を済ませて、神島廃刑務所の観光になる。
「明日がツアーのメインだ。立ち入り禁止場所がほとんどだから、勝手な行動を取らないよう注意しておかないとな」
河原は面倒を起こしそうだ。ああいうプライドの高い手合いは言うことを聞かない。しかも、廃墟写真を得意としているなら慣れているからと好き勝手なことをするだろう。
「河原さんね、ああいうの本当に面倒」
早稲田は溜息交じりで肩を竦める。
「あれだけの施設を保存して、ただ見学客を受け入れるだけで運営が成り立つわけがない。自治体もさじを投げたくらいだ」
神島廃刑務所を産業遺産として保存するために動こうとしたが、あまりに修復管理費がかさむために市はやむなく断念した。そこを晴野リゾートが買い上げたといういきさつがある。
「現実がわからずに勝手なことばかりいいやがって」
中桐は河原の横柄な態度を思い出して歯噛みする。
「いいじゃない、写真が出たら宣伝にもなるわ」
早稲田は中桐の肩に頬を寄せる。
「元刑務官の孫はちゃんと来るんだろうな」
中桐は行程表にチェックを入れる。刑務所への船便もチャーター済みだ。
「ええ、電話しておいたわ。船の出発時間に桟橋に来るって」
早稲田は中桐の神経質な横顔を熱っぽい目で見つめている。
早稲田が中桐の頬に手を当て、強引に自分の方へ向ける。その薄い唇に自分のそれを重ねた。中桐は一度は躊躇うが、それを受け入れる。
職場で二人きり、翌朝提出の企画書の作成で午前様になったことがある。近くのビジネスホテルで夜を明かしたのが始まりだった。
早稲田は彼氏と別れたばかりで寂しいといい、中桐は結婚して12年、妻との関係は冷え切っていた。
早稲田は28才、四十路に差し掛かった中桐には若い身体は魅力的だった。早稲田は職場のエリート課長との背徳的な恋をゲームのように楽しんでいた。互いの醜い利害が一致した爛れた関係だが、それでもずるずると続けている。
中桐は早稲田の健康的な柔肌に指を滑らせながら、そろそろまずいと考えていた。この企画が成功したら、部長職への昇進の話が出るだろう。そこでマイナス要素はできるだけ排除せねばならない。
部署のメーリングリストの通知が届き、テーブルに置いた中桐のスマートフォンの画面が光る。数時間前に入っていた小学五年生になる娘の“パパ、お仕事頑張ってね”のメッセージは未読のままになっていた。
***
明かりを落とした狭い和室の中、時岡史生はタブレット端末の画面に見入っている。画面には掠れた手書きのメモが写し出されていた。
今年の春、肺炎を煩い入退院を繰り返していた祖父が亡くなった。口数が少なく、陰気で怖い印象があった祖父とはほとんど会話をした記憶はない。
祖父の遺品を整理していたところ、年代物のカメラや骨董品、新聞記事の切り抜きに混じって手書きの手記が出てきた。
手記は羊皮紙に鉛筆で書かれており、掠れて判読が難しく、家族は手記には興味を示さなかった。それほど遺品は雑多で、処分が必要だった。
時岡は手記に興味を示した。遺品の中には日記帳もあったが、この手記の文字に鬼気迫るものを感じ取ったからだ。
パソコンでスキャンし、画像処理をかけたところ「神島刑務所」というキーワードが浮かび上がった。
祖父が刑務所に収監されていたという話は聞いたことがなかった。これは墓場へ持って行く秘密なのかもしれない、それとも。
そんな時、ネットで神島廃刑務所見学モニターツアーの募集を見つけた。個人でも行こうとしていたところに渡りに船だ。すぐさま申し込み、見事当選した。これも何かの縁だと感じた。
地元国立大学の文学部を卒業し、学んだ知識を生かせぬ医療機器販売の営業職についた。文学部とはそういうところだ。同級生はパン屋やシステムエンジニアになっている者もいる。
医者の過度な要求や手の届かないノルマ、上司のパワハラに堪えかね、1年半で退職し、今に至る。家族に疎まれながらニート生活をしていたが、子供の頃から憧れていた小説家になる夢は捨てられず、今も執筆を続けている。
祖父の手記をきっかけに、この神室島にやってきた。神島刑務所に行けば祖父が何を言いたかったのか、分かるかも知れない。これは人生の転機だ。
時岡は手に握りしめた白い石を見つめる。祖父の手記にあった通りだ。これが自分を導いてくれる、そう思えた。
***
神室島に上陸してホテルを探そうとしたが港近くの民宿、七福亭しかないと言われた。
しかも、今晩は十名の宿泊客がいるので、部屋が無いと一度は断られたところ、拝み倒してなんとかこの離れを貸してもらえたのだ。
離れは普段ほとんど利用が無くかなり痛んでおり、歩くと家鳴りはするわ、畳はかび臭い。それでも野宿になるよりはマシだった。
禁煙と釘を刺されていたので、真面目に庭に出てニコチンを摂取した水瀬が部屋に戻ると舎弟のジョーとレイはすでに熟睡していた。
今日は島に着いたばかりで時間を潰すだけになってしまった。明日は神島刑務所へ行き、オヤジの遺言の刀、鬼斬り国光を探さなければならない。
刑務所のどこにあるのか、全くわからない。そもそも本当に刑務所にあるのだろうか。無いなら無いで、早く組に帰り報告して終わりにしたい。
こんな居酒屋もクラブも無い島などご免だ。用心棒の仕事でゴロツキをぶん殴っている方が楽しいというものだ。
水瀬は金のラインが入ったジャージに着替えて真ん中のふとんに潜り込む。なんだかんだで気疲れした。よく眠れそうだ。
しかし、一度閉じた目をすぐに見開く。
右隣のレイからは歯ぎしり、左隣のジョーはひどいいびきが聞こえてくる。こんなサラウンド攻撃ではとても寝付けやしない。
しかも、ジョーは時々フゴッと呼吸が止まる。大体、太りすぎなのだ。余計に気になってしまい、結局寝落ちする頃には煤けた障子が明るくなっていた。
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