ロ棟-17号

 神島刑務所 一般収容棟 20:13


 火鳥たちと分かれ、時岡はロ棟通路を進んでいた。耳がツンと痛くなるほどの静寂の中、自分の靴音だけが響く。天窓から差し込む月明かりが雑居房をほの青く照らしている。

 正直、こんな場所にいるのは怖い。勇敢な彼らについて行きたかった。しかし、木島真里が誘拐される要因を作ってしまった負い目があった。

 彼らは自分たちの仕事をやり遂げ、所長室へ戻ってくるだろう。自分も何か役に立たなければ、そう思って行動に出た。


 雑居房の柱には部屋番号のプレートがついている。時岡はそれを頼りに目的の房を目指す。時岡は17号房の前で立ち止まる。


 ここだ、ここに三島豊が収容されていた。祖父の手記を興味本位で読んだときには、こんな場所に来るとは思ってもみなかった。

 就職して現実の厳しさに打ちのめされ、家族に疎まれながら引きこもる日々が続いた。この島に来れば何かが変わると思った。後悔の気持ちに打ちひしがれていたが、彼女を助けここを生きて脱出したい。その気持ちだけで今は突き進んでいる。


 檻に手をかけ、中へ入る。空の二段ベッドに簡易水道、洋式トイレ。囚人の心を落ち着かせるためか、壁は緑色にペイントしてあるがほとんど剥げかけてブロック塀が覗いていた。床はコンクリート製で、小さな排水溝がついていた。

 祖父の同居人は大人しい男だったようだが、これで気の合わない人間だとそれだけで気苦労が絶えないだろう。


 祖父宅の屋根裏部屋から発見された手記は数頁しかなかった。祖父は必死で手記を持ち出したに違いない。あの枚数であれば、衣服の裏にでも貼り付けて持ち出すことは可能だ。

 限られた頁に祖父の想いを汲み取った時岡は、刑務所のどこかに手記を隠しているのではないかと推測した。所長の陰謀や所長に組みする看守のことを考えると、祖父の手記は見つかれば処分されるだろう。手記どころか命も危険に晒されかねない。


 時岡は部屋の中を見回す。狭い雑居房だ。そして八十年も前の個人の持ち物など残ってはいない。一応ベッドの下を覗き込んでみたが、何もない。部屋の中に隠すなら、一体どこだ。錆びて折れ曲がった鉄格子をボキリと折り、鉄の棒を作った。


 ベッドの位置をずらし、棒で壁をつついていく。ある場所でコンクリートを叩く音が変わった。ベッドの目線の位置だ。時岡は音の違う場所を棒で強く突いた。堅いと思っていたコンクリートがぼろりと崩れ落ちた。


 時岡は懸命に鉄棒で穴を崩していく。これは意図的に作られた空洞だ。まさか、脱獄映画のような場面に出会えるとは、時岡は興奮していた。むしろ、映画が実際の脱獄を元に作られたのだ、と思うと腑に落ちる。


 穴は横二十センチ、縦五センチほどの大きさだ。コンクリートの壁を看守の目を盗み、手作業で掘ったのだ。並々ならぬ執念を感じる。

 中に手を伸ばせば、ビニール袋に包まれたノートがあった。


 慎重に取り出し、感激に震える指でノートを開いてみる。スキャンした紙片と紙質が一緒だ。そして、三島の署名。いくつかの頁が切り取られている。出所時に持ち出せた頁だろう。

 月明かりの下、時岡は祖父のノートを無心で眺めた。このノートはここで見つけてもらえるのを八十年近く待ちわびていたのだ。時岡は目尻に滲む涙を拭う。


 しかし、これで満足していてはいけない。ノートの文字はインクが掠れて読めない部分が多い。できるだけ画像処理をして何か手がかりになる記録を見つけなければ。時岡はノートを小脇に抱えて立ち上がる。


 ***


 管理棟 所長室 21:06


 中桐は足音を顰め、管理棟二階通路を歩いていた。

 溶接工から逃げ出し、しばらく独房に身を潜めていた。物音が聞こえなくなってずいぶん経つ。周辺にツアーメンバーはいないようだった。河原と秋山、福原は収容棟の外へ逃げていく後ろ姿を見た。

 腕時計を見れば、九時をまわっていた。中桐は独房から出ることにした。


 所長室は通電しており、電気もつくし身体を休めるソファもある。溶接工がいなければ再び引きこもればいい。それに、妙に気になることがあった。それを確かめたい気持ちも半分はある。


 中桐は考える。初回見学ツアーがこんな恐ろしい事件になるとは、思いもしなかった。次の見学は一旦中止となるだろう。しかし、無事に事件が解決すれば、オカルト話に興味を惹かれた若者が押し寄せるだろう。

 ダークツーリズムは密かなブームだ。自分の身に降りかからなければ、他人の不幸や恐ろしい出来事を興味本位で覗いてみたいというのが人の性だ。


 早稲田は気の毒に、溶接工に殺害されてしまった。実のところ、中桐には悪い話ではなかった。早稲田との不倫を軽い火遊びと最初は楽しんでいた。彼女の束縛が面倒になり別れを匂わせると、奧さんや会社に知られてもいいのか、と脅しをかけてきた。それでずるずる付き合っていた節がある。

 彼女は同世代の営業マンとの噂もあった。早く結婚してくれ、と願っていたが祝儀が香典に変わった。


 中桐は所長室の観音扉をそっと開け、中を覗き込んだ。人の気配はない。室内に滑り込み、扉を施錠した。天井のシャンデリアは破壊され、小さな壁のランプだけの室内は薄暗いが、明かりの無い独房よりずいぶんましだった。

 扉の横の壁に巨大な穴が開いている。一体あれは何なんだ。中桐は身震いする。

 ここに残った探偵とヤクザの死体は見当たらない。したたかな彼らは逃げおおせたのだろう。


 中桐はソファに飛び散ったガラス片を叩き、大股開きで腰掛けた。バッグに隠していたタバコを取り出し、火を点ける。肺に煙を吸い込むと、実際には血管は収縮しているのだが頭がスッキリする気がした。

 ふと、気になっていたことを思い出し、立ち上がった。


 最初この部屋に入ったときに覚えた違和感だ。中桐は扉を背にして立ってみる。部屋を見渡し、執務机の左側の壁に掛けてある旭日旗に目を留めた。あれは改装前にここへ来たときには見覚えのないものだ。

 中桐は旭日旗に歩み寄る。布がたわんでおり、背後にある何かを隠しているようだ。旭日旗を持って軽く引っ張ると、壁に簡易的に留めてあったのか、するりと落ちた。


 壁にかかっていたのは肖像画だ。金の額縁に入った立派なものだ。軍服を着こなし、鋭い目つきにカイゼル髭の壮年の男だ。おそらく、ここの所長なのだろう。中桐はぼんやりとその肖像画を見つめていたが、呆然となりタバコを絨毯に落とした。


 この顔の面影には見覚えがある。誰だったか。中桐はそれに気がつき、肌が粟立つのを感じた。ここにいてはいけない、そう思い慌てて振り返ると目の前に人影が立っていた。


「ごふっ」

 抵抗する間も無く、喉に冷たいものが突き刺さる。遅れて熱い飛沫が迸った。日本刀が喉から突き出ている、ように見えた。研ぎ澄まされた白刃がランプの光を反射して不気味に光っている。

 日本刀が抜かれ、中桐の喉から噴水のように血が吹き出す。中桐は力を失い、膝をつく。朦朧とする意識の中、見上げた顔はやはり見知った男だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る