怪人の襲撃

 溶接工は攻撃が外れたことに苛立ったのか、低い唸り声を上げてハンマーを振り回し始めた。ゴリラのように盛り上がった肩に、血管が浮き出た節くれ立った手、鉄の仮面に空いた四角い穴からは狂気に染まる目が覗いている。

 怒りに任せて振り下ろすハンマーの威力たるや、一切の容赦は感じられない。


「逃げろ、殺されるぞ」

 河原が叫んで管理棟に向けて逃げる。中桐と時岡も後を追って走り出す。秋山は何度も転倒しそうになりながらようやく立ち上がり、泣き喚きながら駆け出す。


「行こう」

 智也は青ざめたまま呆然と立ち尽くす真里の手を引く。

「真里、行くぞ」

 火鳥が真里の背中を叩く。真里はハッと弾かれたように目を見開き、火鳥と智也の顔を見比べた。そして小さく頷く。三人は管理棟へ通じる扉を目指し、全力疾走する。

 とにかく外へ出なければ。


「きゃああ」

 錯乱した早稲田が通路突き当たりの扉を目指して走り出す。管理棟への通路を溶接工が塞ぎ、逃げ道が断たれてしまった。

 同じく取り残された人見は恐怖に震え、後退る。早稲田の悲鳴に呼応した溶接工がこちらを振り向いた。早稲田と人見に狙いをつけ、ゆっくりと近付いてくる。


 早稲田は突き当たりの鉄扉にたどり着いた。慌てて扉を押すが、固く閉ざされている。

「嫌だ、うそっ」

 おそらく、外側で施錠されている。ここは監獄なのだ、内側に鍵がついているはずは無い。身体全体で押してみるが、無駄だった。遅れてきた人見も扉をドンドンと叩いてみるが、開く気配はない。

 背後に巨漢の溶接工が迫っている。恐慌状態に陥った早稲田は人見を突き飛ばした。


「いやああっ」

 早稲田はその隙に脇をすり抜けて逃げ出した。人見は溶接工を目前にして、ガタガタと震えている。溶接工がハンマーを振り上げた。

「うわああ」

 人見は半開きの鉄格子をすり抜けて雑居房に飛び込んだ。振り下ろしたハンマーがコンクリートの床を穿つ。溶接工はハンマーを握り直し、人見の逃げ込んだ雑居房の方へ顔を向けた。


 溶接工は難なく鉄格子を破壊して雑居房に足を踏み入れ、ハンマーを振り回す。ベッドの鉄柱がベゴッと音を立てて凹んだ。

「ひいっ」

 ベッドの奥に身を縮めて潜んでいた人見は、怯えた目で溶接工を見上げる。溶接工は肩で荒い呼吸をしながら淀んだ目でこちらを見下ろしていた。ハンマーは頭上高く振り上げられ、そして振り下ろされる。


「ぎゃああっ」

 人見の叫びが収容棟に木霊した。それから何も聞こえなくなった。

 それは彼がもう生きていないことを意味していた。耳をつんざく絶望と恐怖に満ちた叫び声に、早稲田は身体を竦めて震えている。

 早稲田は棟の中程にある狭い配電室に身を隠していた。管理棟までの長い通路の途中に見つけた扉の中に咄嗟に逃げ込んだのだ。

 破損した配電盤があるだけの狭い部屋だ。早稲田は口に手を当て、必死で過呼吸を抑えこむ。


 のぞき窓から漏れる陽の光は穏やかで、目の前で起きている惨劇はまるで夢のようだ。重量級の足音がゆっくりと近付いてくる。溶接工が次の獲物を狙っているのだ。

 ここへ来る前に、同僚からオカルト話を聞いていた。謎の怪人が廃刑務所を彷徨い歩いているというものだ。廃墟にありがちな怪談と早稲田は笑い飛ばした。それが、まさか現実に遭遇することになるとは。


 足音は配電室を通り過ぎてゆく。早稲田はホッと息をついた。やり過ごした後は隙を見て逃げ出せば良い。人見には悪いことをした。生意気な女の尻に引かれているのは見ていて呆れたが、感じの良い青年だった。

 不意に、バッグに入れていたスマートフォンのアラームが鳴り始めた。ツアー進行の目安で設定したものだ。


 早稲田は慌ててスマートフォンのアラームを止めようとする。手が震え、上手く画面がタップできない。

「やだ、もう」

 ようやくアラームを停止させ、アラーム設定をすべて削除し、電源も落とした。そして、耳を澄ませる。何も聞こえないことが不安をかき立てる。ずっとしゃがんだままで足が痺れてきた。早稲田はゆっくりと立ち上がる。


 のぞき窓を見て、ヒッと喉を鳴らす。溶接工がかがみ込んでこちらを覗いている。瞬間、バンと荒々しく扉が開いた。溶接工の逞しい腕が伸びてきて早稲田の前髪を掴む。

「きゃああっ」

 暴れる早稲田をものともせず、配電室から引きずり出した。早稲田は乱暴に引き倒され、冷たいコンクリートの床に転がる。

「嫌よ、やめて」

 早稲田はゆるゆると頭を振る。前髪がごっそり抜け、パラリと目の前を落ちてゆく。


 溶接工は早稲田の命乞いを聞くつもりはないようだ。早稲田を見下ろしながらハンマーを構える。早稲田はほうほうのていで再び配電室に逃げ込もうとする。

 鈍い音がして、激痛が走った。巨大なハンマーが右脚を押し潰していた。

「ひぃぎゃああっ」

 早稲田は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、信じられない形に変形した美しかった自慢の脚を見て叫び声を上げる。


「嫌よ、こんなの嫌・・・」

 早稲田は血塗れの肉片と化した脚を引き摺りながら配電盤に倒れ込む。目の前が陰った。もう背後を振り向く勇気もない。

 ごしゃっ、と嫌な音がした。目の前が真っ暗になり、そして何も考えられなくなった。


 ***


 恐怖に満ちた絶叫が収容棟に響き渡った。火鳥は眉根を顰め、唇を噛む。まさに断末魔の叫びだった、悲鳴の主はおそらく生きてはいまい。

「遙兄、あれは一体何なの」

 真里が震える声を押し殺して尋ねる。

「俺にもわからない、ただ恐ろしい悪意を感じた」

 火鳥は普通の人間よりも勘が働く。怪人が発するおぞましい悪意に意識が飛びそうになったほどだ。


 管理棟への扉にたどり着いたが、不思議なことに固く閉ざされていた。やむなく整備済みのニ棟独房のひとつに逃げ込んだ。ここに隠れているのは、火鳥、智也、真里、そして金村と時岡だ。通路で右往左往していた時岡を火鳥が引き入れた。

 他の参加者もおそらく別の房に身を潜めているのだろう。通路に人影はなく、残酷なまでの静寂に包まれている。


「この刑務所全体にとてつもない悪意を感じるわ」

 落ち着いた態度の金村はベッドに腰掛け、脚を組む。肝の据わった女だ。

「もしかして、戦時中に行われた人体実験で造られた戦士じゃないか」

 冷静さを取り戻した智也が身を乗り出す。そんなバカな、と否定するものは誰もいなかった。目の前にいたのは人を破壊することに執着した狂気の戦士だった。


「でも、それが何故現代に彷徨いているのよ」

 三角座りをした真里は涙目で智也を見上げる。

「本当にそれは不可解ね。まるで何かに呼び起こされたみたい」

 思わせぶりな態度の金村を、火鳥はそれ以上真里を怖がらせるなと目線で訴える。


「ここをどうやって逃げるか考えているんだが、船が桟橋につくのは16時か」

 火鳥はスマートフォンの時計を確認する。現在時刻は14時10分、船の迎えまで約二時間はある。それまで桟橋で待つことは現実的ではない。

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