地獄の厨房

 神島刑務所 厨房 20:25


 所長室から逃げ出した秋山は、収容棟を抜けて木造二階建ての長屋の一角に立てこもっていた。運動場には恐ろしく巨大な蟇蛙が飛び跳ねていた。収容棟には巨漢の怪人が出没する。ここも安全とは言えないが、隠れる場所が多いことを理由に駆け込んだ。

 窓の木枠を揺らす風の音にも怯えながら、ステンレス製の台の下で息を潜めていたが、しばらく人の気配は無い。


 もう二十時をまわっている。このまま朝までやり過ごせば、ツアー客が戻らないことを心配した旅行社が手配した船が迎えに来てくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いている。


 ここは厨房のようだった。囚人五百名の面倒を見る必要があるため、調理場はかなり広く、たくさんの大鍋が並んでいる。さすがに包丁などの刃物は処分されているようだが、鉄製のフライパンやおたまなどの調理器具が換気扇横にぶら下がっていた。


 料理は嫌いだった。

 営業で夜が遅いと、何も作りたくない。人見が部屋に遊びに来ても、手料理ではなく近所の洋食店からデリバリーをした。彼は手料理が食べたい、と言うことがあったが、うやむやにして誤魔化した。

 二人とも収入はある。料理をする時間の方が勿体ないと思えた。今思えば、一度くらい手料理を作ってあげても良かった、と秋山は思う。人見の穏やかな笑顔が目頭に浮かび、涙が零れた。


 気分転換に外に出てタバコでも吸おうか、そう考えて調理台の下から這い出そうしたその時。扉が軋む音がして、誰かが入ってきたようだった。秋山は口元を抑え、悲鳴が漏れないよう歯を食いしばる。

 大股で重量感のある足音は男のようだ。秋山は呼吸を止めて台の下で身を固くする。足音はこちらへ近付いてきて、目の前を通り過ぎようとしている。その瞬間で誰か分かるはずだ。ツアーメンバーの誰かであって欲しい。


 秋山の目の前を信じられないものが横切った。青白い顔の女の生首だ。太鼓腹の男が人間の頭部を髪の毛を掴んでぶら下げるように持ち、かまどの方へ歩いていく。

 女の顔は無惨にも半分潰れていたが、派手な石のついたピアスには見覚えがあった。このモニターツアーを主催した晴野リゾートのツアコンの一人、早稲田るりだ。


 彼女は収容棟でハンマーを持った大男に襲われた。残された血痕から生存は絶望的だと男たちが話していた。それでも、遺体が持ち去られていたこともあり、もしかしたら案外生きているのでは、と信じたかった。


 同年代の早稲田の態度は鼻につくものがあった。いつも中桐の背後に回り、仕事をしているように見えなかった。時々中桐とツアー客の影口を言い合っているのも知っていた。

 だが、死んで良かったとは到底思えない。なにより、自分もああなる可能性があるのだから。


 太鼓腹の男は早稲田の頭部を机に置き、かまどに火を入れた。大きな鉄鍋を用意し、水を注いで湯を沸かしている。何の曲か分からない鼻歌は滑稽に思えた。秋山は台の下からそっと様子を伺う。

 男は頭に元は白かったであろう帽子をかぶり、エプロンをつけていた。料理長といった風体だ。手にした四角い肉切り包丁で何かを切り刻んでいる。鼻腔につく濃い鉄の匂いに、秋山は思わず吐き気を催しそうになり、唾を飲み込んだ。


 料理長は早稲田の頭部を乱雑に掴みあげ、潰れた顔を見てヒヒッと嘲笑ったあと、煮えたぎる湯の中に放り込んだ。ぼちゃんと音がして、湯が跳ねる。

 秋山は過呼吸を押さえ込み、台の下で蹲って震えている。

 あの料理長に見つかったら、自分も食材にされてしまうのではないか。そんな恐ろしい考えに、かみ合わない歯がガチガチと震えだした。


 早稲田のようにはなりたくない。秋山はぎゅっと目を瞑る。これが悪夢で、目が覚めたら朝陽が差し込むマンションの部屋なら。隣には真吾が穏やかな寝息を立てて眠っている。そうであって欲しい。

 目を開けると、汚れた古い木の床が目に飛び込んできた。これは現実だ。ここから逃げ出さなくては。

 

 料理長が調理に集中している今がチャンスだ。秋山は顔を覗かせる。鍋の前にいたはずの料理長の姿が無かった。

「きゃぁあああ」

 不意に足首を掴まれ、調理台の下から乱暴に引きずり出された。目の前に肉切り包丁を手にした料理長が立っている。その顔は脂肪で膨れ上がり、めり込んだ目は細く、口は筋肉の引き攣れで壮絶な笑みを浮かべているように見えた。


 料理長は暴れる秋山の足首を掴んだまま、調理台の上に放り投げた。

「ごほっ」

 一瞬息が止まり、咳き込む。目の前に巨大な肉切り包丁が迫る。料理長は容赦無く包丁を振り下ろした。秋山は慌てて顔を背ける。耳と艶やかな髪がばっさりと切り落とされ、悲鳴を上げる。


 秋山は痛みにのたうち回り、調理台から転落した。切られた耳が焼けるように熱い。秋山はふらつきながらも立ち上がり、かまどへ向かって走った。ぶら下がっていたフライパンを掴み、振り回す。

 獲物を逃がした料理長が包丁を振り上げ、怒りの形相で突進してきた。秋山がフライパンを振り回すので近付くことができず、不快な唸り声を上げている。


 秋山は火にかけられていた鍋を掴み、床にぶちまけた。熱湯が跳ね、足にかかり悲鳴を上げる。料理長にもダメージがあったようだが転がった早稲田の頭を見て、食材を粗末にしたことに憤慨している。早稲田の頭部から髪が皮膚ごとずるりと落ちて、秋山は絶叫する。


 流し台を回り込み、扉に手をかけた。ドアノブを捻ると、ドアはあっさり開いた。隣の部屋に逃げ込むと目の前に異様な光景が広がっていた。

 そこは食堂のようだった。囚人たちが黙々とトレイに載った食事を口に運んでいる。席は満席だ。これだけの人がいるのに、話し声もしない。きっと彼らも収容棟で見たような過去の亡霊なのだろう。

 今は背後に迫る料理長の方が怖い。 


 秋山は囚人たちの椅子の間をすり抜けるように進む。奥にも扉があった。あそこから逃げ出そう。秋山はふと、囚人のトレイに目を落とした。スプーンでスープを掬い上げるとそこには目玉が乗っていた。

「ヒッ」

 秋山は息を呑む。囚人はそれを口に運んで咀嚼している。よく見れば、他の囚人のスープには爪のついた指が見えた。ここでは一体何を食べさせていたのだろう。

 秋山はその場で胃の中のものを吐いた。昼間からろくに食べていないので、酸味の強い胃液が流れ出るだけだった。


 よろめきながら、扉にたどり着く。ここから出なければ。扉を開けようとすると、目の前に肉切り包丁が突き刺さる。

「きゃあああ」

 もう叫ぶ声もかすれていた。背後に料理長が迫ってくる。この包丁で首を掻ききれば楽に死ねるかもしれない。ぼんやりとそう思った。


 突然、目の前の扉が開き、そこには思わぬ人物が立っていた。

「路瑠、こっちだ」

「し、真吾」

 溶接工に殺害されたと思っていた恋人の人見だ。秋山は幽霊でも見たように呆然と立ち尽くす。人見は秋山の手を引き、扉を閉めた。そして渡り廊下を走る。その手の温もりと強さに、秋山は堪えていた涙が一気に溢れた。

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