第31話 たった一言がもつ意味

 部活が昨日で終わり、いよいよこの日からテストに向けて本格的な対策が始まる。教室の雰囲気もいつもより少し引きしまって、真剣な表情をする者も増えてきた。藤宮が通っている高校は一応進学校と言えるレベルなので、皆それなりに勉強にたいする意識が高い。


 準備運動である授業を受け終え、放課後になっていよいよ本番が始まる。授業後のいわゆる家庭学習こそが学習の基礎であり、何より大切。特に藤宮はすでにまるまる一年棒に振っているので、文系科目すべてで50点を取るにもふつうの人の何倍もの時間が必要になる。


 図書室を使わなかったのは、図書室では教えて貰うことができないから。放課後になって、桐嶋は藤宮の隣の席が空いていたのでそこに座り、鞄から筆記用具などを取り出していく。


「ほら。今回のテスト範囲の中で、藤宮君にあったレベルの問題をつくったから解いてみて」


 いつものごとく桐嶋の号令で彼の特訓がはじまった。そして藤宮が問題を解き始めたのを確認してから、彼女もまた自分の勉強をはじめる。昨日までは柔らかめな態度だったが、どうやら勉強に関しては手を抜かずに相変わらず厳しく接していくらしい。


 常に努力を怠らなくて、自分を導いてくれる彼女は……女性への褒め言葉として正しいかはわからないが、かっこよかった。彼女の横顔が、真剣な瞳が、キッとかたくむすんだ唇が、彼女のたたずまいすべてがかっこいい。それでいて、先週の体調不良だったときに見せたような可愛さもまた持ち合わせていて、おまけに頭脳明晰ときている。


 完璧で、だが完璧であるがゆえに未だに近づくのに遠慮しがちになってしまう相手。最近は彼女のほうから距離を近づけてくれている気がするが、逆に言うと彼女のほうから近づいてくれないとダメで、彼自身からはなかなか距離を縮めづらい。それは彼女にたいして何もしてあげられない自分が原因で……彼女ともっと近づく資格がないように思えるから。桐嶋に対して彼はいつもして貰う側だから。高嶺の花だといって諦めるのは今の自分の感覚に近いのだろうか、と彼は感じる。


「どうしたの、ぼーっとして! 集中力がたりない」

「あっ、ごめん」


 彼女の態度は何より彼を思ってのことだし、自分自身に対しても同様なのでスンナリと厳しさを受け入れられた。そこがまたかっこよくて、今以上に近づくことをためらってしまう要因になっている。


(何でだろ? 意識する回数が増えた気が……)

 

 今までに比べて彼女と接する回数が増えたからかもしれない、頭の中で桐嶋が占める割合が増えている気がする。


(ダメダメ! せっかく俺のために頑張ってくれているんだから、それに答えなきゃ失礼だ)


 頭から彼女を振り払い、ようやく目の前にある問題に集中しはじめる。単語の意味確認と長文問題がメインだった。先に問題を見てから、関係がありそうなところを重点的に読んでいく。わからない単語もそこそこあるが、読解に関係ないと判断したところは読み飛ばして問題文全体の要旨をつかむことを優先した。


「ふう……一応できたかな」

「見せて」


 桐嶋は彼からプリントを受け取ると、真剣なまなざしでジッと答案を凝視する。その後赤ペンを取り出すと、彼の答案用紙にカリカリと書き込みを入れていく。藤宮はそんな彼女を不安と緊張が入り交じった目で眺めていた。この時間もまた相変わらず心臓に悪い時間だ。


「今の感じだと、だいたい40点くらいは取れるんじゃないかな」

「40点……」


 解いた感触的にもっといけると思ったのに……まぁ、世の中こんなもんである。一部の天才を除いてそんなに簡単に努力が報われることはない。別に悲観しているわけでも強がっているわけでもなく、本当にそんなものだ。


「でも、一年の頃は6点だったじゃない。それを考えるとかなり伸びてるよ」


 ほんの少し落ち込んだのが桐嶋にも伝わったのだろうか、優しくフォローしてくれた。その優しさが身に染みわたり、より一層やる気を引き出してくれる。


「ありがとう、50点いけるかな?」

「これからの頑張り次第だけど、十分可能性はあるよ」


 続いて古典の問題を解いたのだが、これがまた全然伸びていない。古典がヤバいと思って最近はかなりやっていたのだが、それでも全然ダメだった。


「たぶん25点くらいね。古典はなかなかヤバいね」


 ずいぶん正直に言ってくださる。これの方がまだ気楽だ。しかし、古典の中でも古文が難儀だ。漢文は漢字から意味を推測できるが、古文はそれができないことが多い。おまけに一つの単語に複数の意味があることが多いし、しかもその意味が正反対であることも珍しくない。また、音としては現代語に残っている単語もあるが、意味が現代のものとは違うことも多々ある。助動詞の意味の判別だってかんたんではない。


「少しずつやっていけば伸びるから、大丈夫。がんばろう、ねっ?」

「……うん、ありがとう」


 やはり、彼女の態度は少しずつ角が取れて柔らかくなっている。桐嶋の頑張りに応えられるように、桐嶋にためらうことなく歩み寄れるように……。より一層がんばる決意をして、彼はペンを握った。





 二人の時間はあっという間に過ぎて、いつの間にか下校時間が訪れる。自習を続けていた彼らは急いで荷物をまとめて校舎から出た。二人きりになるとどうしても話題に困って、二人ともいつもより口数が少なくなるが、今はその沈黙も気まずくなかった。


「わたし、こっちだから」


 六月に入ってまだ明るい空の下で、彼らはゆっくり二人きりの時間を過ごしていた。そして、そんな静かで優しい時間もいったん終わりを迎える。


「そっか、じゃあね」

「うん、また明日」


 一旦は終わったが、完全に終わりを迎えたわけではなかったようだ。桐嶋と藤宮の勉強会はまだ明日も、いや当分続いていくらしい。彼女から発された言葉がそれを裏付けていた。


「うん、また明日」


 たった一言であっても持つ意味は大きい。明日以降も一緒にいられることが決まる魔法の一言。互いが互いに言った言葉を、言われた言葉をかみしめて胸の中にとどめて、一人だけど一人ではないとも言える帰路についた。

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