第7話 一歩前進

 体育。それは運動神経のいい奴らが我が物顔で己が技量を自慢し、運動神経の悪い哀れな人間がさらされる科目。それはさすがに言いすぎな気がしたが、運動神経が悪いと肩身が狭いのは事実だ。もちろん藤宮は後者。新学期が始まって初めての体育の実習。朝から最悪な気分だ。


 おまけに体育は二クラス合同、さらに男女合同で行われる。そして彼のクラスは西条のクラスと合同なのだ。桐嶋ならまだしも西条にかっこ悪い姿を見せたくない。


 この高校の体育の種目は各自で選択できる。バレーボールとテニスの選択で、藤宮はテニスを選んだ。


(正直どっちもイヤなんだけど……)


 テニスが決して好きなわけではないが、バレーよりはマシという消極的な選択。何よりバレーはチームスポーツなので自分がミスしたらほかのメンバーにも迷惑がかかる。そして彼の経験上、だいたい下手な人はよく狙われる傾向にある。自分がミスをしまくって周りから白い目で見られるのが目に浮かぶ。


 その分テニスは前衛と後衛に別れるから最低でも一人には迷惑を掛けることになるが、まだ気が楽だ。たった唯一の心配事を除いて……。そんな陰鬱な考え事をしながら黙々と準備運動を行っていたら、教師が口を開いた。


「では、まず二人一組のペアをつくってください」


 心配なことが現実に起きてしまった。テニスにおいて、いやラケット競技において最も恐ろしい言葉。一年の頃からずっと寝ていて友達なんていない彼はあっという間にペアをつくっていく集団の中に一人取り残されていく。ああ、自業自得とはいえ少し寂しい。そんな感傷的な気分に浸っていると目の前には西条の姿。


「藤宮君、もしよければ私とペア組まない?」


 差し出された救いの手。体操服姿の彼女にいつもとは違った色っぽさを感じる。


「えっ、いいの? 西条さんはほかに友達いるんじゃない?」

「文香はバレーにしちゃった、って言ってたし。何より藤宮君一人でしょ?」

「まぁ、そうだけど……いいの?」

「うん、もちろん。私が誘ったんだから」

「……ありがとう、西条さん」

「それと西条さんじゃなくて綾乃でいいよ? みんなそう呼んでるし」


 女子の下の名前を呼ぶなんてたいそうハードルが高い。でもせっかく仲良くなれるチャンス。みすみす逃すなんてもったいないと感じる。


「じゃあ、これからは綾乃って呼ぶね」

「うん、ありがとう。じゃあ、私も宏人君って呼んでいいかな?」

「もちろんいいよ」


 これがコミュ力の差なのかも知れない。こんなにあっさり互いに名前呼びする関係になれるとは。友達がいなかったからか、名前を呼ばれるのは初めてでなんだかこそばゆい。


「じゃあ、今組んだペアの人と打ち合ってみましょう」


 そんな教師の声がしたので、テニスコートにクロスで入って二人で軽くラリーをする。素人の藤宮でも彼女はそうとう上手だと感じた。整ったきれいなフォームで彼が取りやすい場所に打ってくれる。一方で、彼がコントロールミスをしたときにはさっと動いて、何事もなかったかのように返球する。


(ハァ~、俺よりふつうにうまいな)


 藤宮はテニスはまだできる方なので特段下手というわけではないのだが、彼の男としてのプライドがほんの少し傷つけられた気がした。


 軽い休憩が入り、藤宮はペットボトルで水を飲んでいる西条のところへと向かう。せっかくペアを組んだのだから少しでも話して仲良くなっていきたい。彼女の頬にはほんのりかいた汗が垂れていて、ペットボトルに口をつけている様は艶めかしい。


「えっと、……綾乃」


 まだ下の名前で呼ぶのは少し照れくさい。


「どうしたの、宏人君?」

「テニスうまいね、昔やってたの?」


 まずは適当に会話を始める。できる男は相手を褒めることからはじめる! はず……。


「いや、やってないよ。私、運動神経には自信があるんだ」

「へぇ。じゃあ、なんで運動部に入らなかったの?」

「中学生まで運動部に入ってたんだけどね、上下関係が厳しくて、あと他にも……。それに、本が好きだったから文芸部にもともと興味があったんだ」


 確かに上下関係が厳しい運動部もまだ多いだろう。それだと運動神経がよすぎてもいろいろ面倒くさそうだ。後輩なのに先輩よりうまかった、とか。また、西条みたいに可愛いとさらに多くの嫉妬も受けてきただろう。彼女はあまり語りたくなかったのか、少し表情が暗い。


(しまった、ちょっと不躾に聞いちゃったなぁ)


 今になって悔やむがもう遅い。何で頑張って話そうとすればこうなってしまうのか、少し自分が嫌になる。


「でも、今はホントに楽しいから気にしないで」


 藤宮の沈黙から空気が悪くなったことを悟ったようで、彼女は慌てて付け足す。実際今はそれなりにうまくやれてそうだ。初めて楽しくやれる部活。西条にとって文芸部は大切な場所に違いない。


「一緒に小説作るの頑張っていこうな」

「……うん!」


 これが今の彼が言える最大限の約束。体育が終わって彼ら二人は話しながら互いの教室に向かって歩いていると、先に藤宮の教室の前に着いた。


「じゃあね、宏人君。また部活で」

「うん、綾乃。また部活で」


 それと同時に、バレーがちょうど終わって教室に戻ろうとしていた桐嶋に偶然出くわす。


「綾乃……?」


 そう呟いて一瞬固まる桐嶋。


(もうお互いを名前で!?)


 聞き間違いでなければ彼ら二人はお互いを名前で呼び合っていた。少しは覚悟していたとはいえもう距離が近くなっている。自分はまだ全然進んでないというのに……。何で自分はバレーを選んでしまったのだろうという後悔が襲ってくるが、


(でも二人が楽しそうにしているのを見るのも……)


 目の前で見せつけられるのも嫌だと思い直す。結局バレーを選んで正解だったと彼女は自分自身を納得させた。


「どうした? さっきからぼーっとしてたけど」

「何でもいいでしょ、はやく教室に戻りましょう」


 桐嶋に言われるがまま藤宮は教室の中に入った。頭にあるのは西条とのテニス。女子と一緒にスポーツしたことがない彼は、たった一回の出来事を反芻して、西条とのテニスを頭の中で何度も繰り返す。さらに互いを名前呼びしたことも……。正直自分でも気持ち悪いと思ったが、頭の中は不可侵の領域だ。これからも西条と一緒にテニスができる、そう考えるだけで体育がほんのちょっとだけ待ち遠しくなった。

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