第32話 錯綜

 また明日。アニメでは完全にやばいフラグだが、何の変哲もない学園生活においてはその限りではない。普段通りに次の日が訪れるだけで、もちろん大きなイベントが起きることはない。だがそんな普段通りの桐嶋との時間が続くことが、勉強に疲れた今の藤宮にとってささやかな楽しみになっていた。


 テスト期間中は部活がないので、クラスが違う西条と顔を合わす機会が減ってしまうので若干の寂しさはあった。そのため、彼女も一緒に勉強しようと誘ったのだが西条にはその気はなかったらしく断られてしまったので、今は桐嶋と二人きりの時間が増えた。西条がなぜ断ったのか、彼にはすっかり理解できなかったが、その理由を考えていられるほど頭のキャパに余裕はない。少しでも単語を覚えなければ……


(こんなに勉強したのは生まれて初めてかもな)


 勉強しなくてもいい成績を取れていたので中学の頃は何もしていなかったし、高校では、勉強していなかったらまったくついて行けなくなって嫌になって何もしていなかった。


(これもまた高校生らしい……のかな?)


 相変わらずクラスの中では陰キャだがそれはもはやどうでもいい。これまで不要だと思って切り捨ててきた勉強・青春・部活・人間関係に真正面から向き合う、ちょっと前なら想像もできなかった藤宮がそこにいた。ある春の日、彼が文芸部の教室を覗いたことではじまった、いや狂ってしまった運命。藤宮が前へ進めば進むほど、これまでの退廃的な生活で消えていった感情をだんだん取り戻してしまうほど、より普通の高校生らしくなればなるほど、彼をとりまく深くて脆い関係性を壊してしまう。そんな悲劇の運命を今の彼は知るよしもなかった。


 今の藤宮の課題は古典、その中でも特に苦手な古文の点数を引き上げること。そのために古文の単語帳と文法書をひらいて隅から隅まで見落とすまいと睨みつける。


「おはよう、朝から勉強熱心ね」


 朝から勉強をしていると登校してきた桐嶋から声をかけられた。彼女は荷物を下ろすと後ろの席に腰掛ける。


「あっ、おはよう。まぁね、古文が一番ヤバいからなんとか潰さないと」

「それにしてもずいぶん素直なのね。がんばっているときに水を差すようで悪いのだけど、本当に今年はどうしたの? 去年と人が変わったみたい」


 去年の彼を知っていたら、今の彼を見れば誰だって戸惑うだろう。それほどまでに去年の彼は酷かった。これについては藤宮自身ある程度自覚がある。ラノベ作家として常に執筆を中心に彼の生活が回っていた頃。授業は聞かずに常に睡眠、学校行事もそれほど熱心に参加するわけでもなく、勉強はできないし友だちもいない。クラスに一人はいるかいないかの底辺。特に誰かに迷惑をかけたわけではなかったが、そのため誰の記憶にも残らない、そんな生徒。桐嶋のような優等生の記憶に残っているのが不思議な生徒だった。


「きっかけは諸事情あって……でも、今はこれが楽しいから好きでやってるよ」

「諸事情ね……」

「……ハハハ」


 彼女の不満そうな顔からはその諸事情を知りたいんだ、という気持ちを読み取ることができたが、あえて空気を読まずに答えなかった。


 今までの桐嶋との勉強特訓ではいろんな彼女を見ることができた。勉強中の真剣な雰囲気をまとった桐嶋はもちろん、休憩を挟んで若干リラックスした顔の桐嶋、藤宮に勉強を教えてくれるときの瞳に優しさを浮かべている桐嶋。下校時刻になってやりきった表情をしていたり、一緒に帰っているときに楽しそうな表情をしていたり、帰り道の別れ際にほんの少し寂しそうな目をしていたりする。最後のは桐嶋はすぐさま否定にかかるだろうが。目は口ほどにものを言うといわれているが、彼女においても同じことが当てはまる気がした。


 正直彼女の表情の豊富さに驚いた。口に出しては言ってくれないけど、いろんなことを思っているんだと感じることができた。しかも悪い方ではなくていい方に思ってくれている。


 そして、彼女の表情をこれほどまでに見ていた自分に驚いた。急激に彼女との距離が近くなったのが理由なのだろうか、気づけば桐嶋に目が吸いよせられていた。


 朝の予鈴が鳴ったので、雑念を振り払ってⅠ限目の授業を迎える。午前中の授業を受け終えると待ちに待った昼休み。授業を寝ているときは大してありがたみが沸かなかったが、真面目に授業を受けている今となっては昼休みが至福の時間に思える。給食ではなく弁当を食べることになっている彼の学校は、昼休みのうちなら校内のどこにいてもいいし、どこで食べてもいいことになっている。そうはいっても彼は自分の席で一人黙々と食べて、食事が終わればスマホで適当なソシャゲをするだけなのだが。


 しかし、今はそんな彼の平凡な昼休みが終わりを告げようとしていた。彼の後ろの席から遠慮気味に手が伸ばされて、藤宮の肩に触れようとしたとき……藤宮の両目に映っていたのは西条だった。彼女はいつの間にか彼の教室に入ってきていて、目の前に立っていた。


「ごめん、迷惑だったかな? 最近あまり話せてないから来ちゃった」


 昼休みのうちならどこにいてもいいし、どこで食べてもいい。確かにそうだから今の西条の行動だっておかしいものじゃない。実際、他のクラスの人と食べている人もいる。しかし、こんな美少女といっしょにお昼ご飯を食べる日が来るなんて誰が想像するだろうか。嬉しさよりもまず戸惑い。それが去った後にようやく口をひらく。


「いいの? 俺といっしょに?」

「うん、いっしょに食べよ?」


 改めて自分が誘われていることを実感した後、嬉しさがこみ上げてきて顔が熱を帯びてくる。それと同時に周囲から注目を浴びているのを感じた。やはり西条のような可愛い人がいると皆の目線もついそっちに行ってしまうのだろう。


「いっしょに食べるのはいいけど、ここじゃなくて別の場所にしないか?」

「……う~ん」

「頼むよ、この注目が気まずくて」

「まぁ、そこまで言うなら……」


 そして、藤宮はこの注目・視線が大の苦手。西条はそこまで乗り気ではなさそうだったが、無理を言ってなんとか他の場所に移動することができた。西条がここまでの会話の間に何度か彼の後ろに視線を移していたが、藤宮は周囲からの注目で頭がいっぱいでまったく気づいていなかった。西条の視線の意味を知らぬまま、彼は西条との時を過ごすことになる。


 教室以外の場所で食べるのに適した場所を探すのは難しく、けっきょく彼らは中庭で昼食をとることにした。六月特有のじめじめした空気の教室から抜け出して、風通しのいい中庭までやってくる。そこに用意されてあったてきとうなベンチに腰掛けて、二人はそれぞれの弁当に手をつける。


「宏人君、毎日コンビニのおにぎりと菓子パン食べてるの?」

「うん、そうだけど」

「健康に悪いよ、もう少し野菜をとらないとダメ」

「そう言われてもつくるのがめんどくさくて……」

「ふ~ん、そうなんだ」


 一見興味がなさそうな台詞だが、口調と表情でほんとうは違うことは一目瞭然。チラチラ彼のほうを見ているし、口調も少し上がり気味だ。だが、その後はっするべき言葉がわからずこの話題は立ち消えになってしまった。その後もぎこちない言葉のキャッチボールが交わされる。風通しがいい青空の下で食べた弁当だったが、緊張のせいかいつもより味がしなかった。

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