第20話 もう少し

 なんとか学校には登校したが相変わらず体がふらふらする。頭痛に限って言えばさっきより酷くなった気がした。電車に乗って登校するだけでもこのざまだ。到底走れそうにない。


「大丈夫? かなり具合悪そうだけど」


 ぐったりした藤宮を見かねて、後ろの席の桐嶋が心配そうに声をかける。


「……なんとかなるよ」

「走るまでに具合よくならなかったら辞退した方がいいと思うよ」

「最悪そうする。心配してくれてありがとう、でもたぶん大丈夫だから」

「……そう、ならいいけど……」


 今日彼が出る種目は綱引きと全員リレーだ。


 リレーは午後からの種目で、最後の種目。綱引きはその前にある。この二つが午後に行われる種目で、午前の二人三脚と騎馬戦には出ないので午前は睡眠時間に充てられる。仮眠を取れば多少は回復するかも知れない。そもそもの原因は睡眠不足なのだから。朝コーヒーを飲んでしまったがこれだけ具合が悪ければすぐ寝られるはず。


 ふと前を見ると「めざせ優勝」みたいなスローガンが黒板に書かれているのが見えた。眩しくてすぐに目をそらす。彼は興味がないからわからないが、おそらく応援団長と思われる体格のいい男が音頭を取っている。


「みんな、優勝目指してがんばろうッ!」


 こういうノリは得意ではないが、こういったタイプの人間はなんだかんだいい奴が多いのでまだいい。一番嫌なのはこういった音頭の後に騒がしくして、これから俺たち活躍するから見とけよ、みたいな雰囲気を醸し出して自分の存在をアピールしてくるチャラそうな連中だ。これはもちろん藤宮の勝手な憶測なので彼らがどういった意図で騒いでいるのかは不明だ。単純に体育祭が楽しみで騒いでいるだけかも知れない。


 この手のタイプは誰かが足を引っ張っていたら裏で陰口を言う。中学の頃、彼がまだ体育祭に出ていた頃はそうだった。少なくともそれを言われた本人としてはああいうタイプへの恐怖心は拭えなかった。頭がふらふらするのに相変わらず皮肉思考とネガティブ思考だけは衰えない。


 最初の種目の二人三脚が始まる時間に迫り、選手と観客がガヤガヤと話しながら校庭へと繰り出す。


「私、二人三脚に出るからいくね」

「ああ、頑張って」

「……うん」


 机に突っ伏して動こうとしない藤宮を少し寂しげに見つめたが、桐嶋は移動している集団に混じっていった。


 藤宮は心の中で謝罪した。彼は察しは悪くない。彼女がどうして欲しかったかはわかっていたが、今は事情が事情だ。少しでも寝てコンディションを整えないといけない。


 大勢の生徒が校庭に繰り出したので移動の時はうるさかったが、移動が終わった後は一転してしんと静まりかえる。瞼が重くなり、彼の目はすぐに閉じられた。







 机は堅いし、座りながら寝るのは体制的にもきつい。そのせいかしばらくすると彼はふたたび意識を取り戻した。どれほど寝ただろうか、やがて藤宮の目はゆっくり開かれる。


「!?」


 幻だろうか。目の前にあったのは西条の顔。中腰で机からひょっこり顔を出しており、机上の彼の顔の真正面。至近距離で見つめ合うかたちになっていた。そんな彼女の顔はいたずらっぽく笑っている。最初は寝起きでよくわからなかったが、状況がつかめてくるとどんどんドキドキしてきた。心臓の鼓動がはやくなる。


「ごめん、おこしちゃったね」

「何でここに……?」

「文香が、宏人君の体調悪そうだったからちょっと見といてって言ってたから」

「ああ、なるほど……」

「私は次の騎馬戦に出るから、そこで文香と交代だね」

「本当にありがとう。ごめん、わざわざ」

「気にしなくていいよ。多分だけど昨日緊張してあんまり寝られなかったんでしょ?」


 笑える状況ではないのだが、西条の顔は依然笑顔だった。


「情けない限りですが、おっしゃるとおりで……」

「不安にならなくていいって言ったのに~。体調はホントに大丈夫なの?」

「なんとかして、これからよくする。やっぱり練習の成果を出したいから」

「無理はしちゃダメだよ。でも来てくれて、そんなこと言ってくれて嬉しい。私も頑張って教えてよかったって思えるよ。……じゃあおやすみ」


 優しく微笑む西条の顔がどんどんぼやけていく。彼はまどろみの中に沈んだ。






 昼が近づくにつれて太陽の光が徐々に強くなる。寝ている藤宮の背中も日に照らされて熱くなっていく。その熱でふたたび彼は目を覚ました。もう昼が近いことがなんとなくわかり、彼は大きく伸びをしてぐるりと辺りを見渡す。


「おはよう、よく寝られた?」

「うん、だいぶ体調がよくなった」


 今は寝起きだからまだ体がふわふわするが、それでも寝る前に比べたらかなり楽になった。一方で頭がまだふらふらするので、ベストコンディションとは言いがたいがしょうがない。


「ありがとう、俺の体調を気遣ってくれて。嬉しかった」

「あっそう。それより今度からはちゃんと体調管理をしなよ」

「そうだよな……反省してます」


 ここで桐嶋は一呼吸置いて――


「まぁとにかく、出られそうになってよかったね」


 彼女は笑顔だった。今まで西条に対してなら笑顔だったときもあったし、帰り際に何気なく笑顔だったことはあった。しかし、はっきりと藤宮に向けられたのは初めて。彼女の笑顔はきれいで、それでいて可愛くて、藤宮にとって忘れられないものになった。もっと彼女を笑顔にしたいと思ったし、この笑顔を守りたいと思った。これは西条の笑顔を見たときに抱いたのと同じ感情だった。


 漠然とこんなことを思ったが、今後彼女たちが同じ時に心の底から笑顔になれるときはやってくるのか。藤宮はそこまでは考えていなかった。

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