第19話 決意

 いよいよこの日が西条との最後の練習。これが終われば残すは本番のみ。藤宮の顔にはいつも以上の緊張の色が現れていた。今日は主に今までの練習の確認に入る。


「ちゃんと動けてるね。連休中もちゃんと走ったんだね」

「ああ、教えてもらっている立場だから言うことは聞かないとな」

「ふふふ。えらいえらい」


 からかわれているのはわかるのだが、彼女の笑顔があまりにも純真で可愛いので言い返す気もおこらない。そして何より緊張していて冗談に付き合えるほどの余裕はなかった。あと一週間後には本番、それがどうしても頭から離れない。西条もそんな彼の様子を見て心境を察したのか、彼を安心させるようにゆっくり優しい口調で声をかける。


「宏人君、いっぱい緊張してもいいよ。緊張するなって言う方が無理な話だから。でも不安にならないで。もし本番に失敗しちゃったとしても、私だけは宏人君の努力を見てたから。仮にクラスのみんなから嫌な目で見られたとしても、私がいるから。だから不安にならないで、ねっ?」


 西条はいつだって彼を安心させる言葉を持っている。そんな彼女が頼もしい。


 失敗したくないからそんな万が一のことなんて起こらないのがベストだ。それでも最悪の場合でも西条は自分の味方であること、変わろうとした自分を認めてくれること、これがわかっただけで不安が少しずつ溶けていく気がした。クラスのみんなから白い目で見られることがずっと怖かったが、たった一人であっても理解者がいればなんとかなる。そう思えた。


「ありがとう……綾乃がいてくれて本当によかった」

「えっ……えっと、そう言ってもらえるのはとても嬉しい……です」


 彼女の声は若干うわずっていて、はにかんでいるようだった。顔を赤くして目を伏せて視線をそらす。こんなに恥ずかしがっている彼女は今まで見たことがなかった。


「でも……できれば、かっこいいところを見せられるようにがんばるから」

「うん、気負いすぎない程度にがんばって」


 彼女は頼もしいし優しいからこそ、できる限りそれに甘えないようにしないといけない。そう強く思い直してせめてもの意地を見せる。ここまでしてもらったのだからキチンと結果で示さないと。少なくともそのくらいの意思を持たないと結果はついてこない。最終確認を無難にこなし、きたる一週間後に備える。










 体がだるい。西条との最後の練習からはや一週間後。今日が来たる体育祭の日だというのに体がだるい。心当たりはあった。昨日の夜、体育祭に備えて早く寝ようとしたのだがなかなか寝付けなかった。そしてついつい翌日のことを考えてしまい、胃が痛くなって何度もトイレに行くはめになってほとんど寝られなかったのだ。完全に自業自得。


(なんで張り切ると悪い方向ばかりに行くんだよ……)


 せっかく今まで頑張ってきたのに、一緒に西条と練習したのに。


 ここまで考えすぎるのはちょっと異常だ。彼もそれはわかっているのだが、去年休んでしまったからこそ余計にちゃんとやらなければという気になってしまう。一度サボってしまったら次からは行きづらくなる感覚に似ている。


 世間で言われる普通の学生のようにクラスに友達がいるわけではなかった。だから、藤宮がミスをしたときにかばってくれる人は誰もいなかった。もちろん藤宮の自業自得だ。積極的に話しに行かなかったのだから。だがそれが怖くて去年ずる休みをした。


 藤宮のことを知っている人・覚えている人は少ないはず。桐嶋のような例外もいたが、去年休んだことを知っている人も少ないはず。当然ずる休みだったことを知るものはいない。だから何も気にせず行けばいいのだがどうしても気まずい。自分の心の中でひっかかるものがあった。寝ようとしてもそればかりが思い浮かんできた。


 もちろん不安がなくなっていないことも寝られなかった理由にあたる。体育祭に行って恥をさらしてこんなことなら行かなかった方がよかったと思いたくなかった。不安にならなくてもいいと言ってくれたのに。西条があれだけ言ってくれたのになかなか自分の卑屈な性格は直らない。スパッと性格を変えられたらどれほど楽か、彼は嫌でも今の自分の性格と付き合っていくしかない。


(休みたい……)


 体はだるい。寝不足のせいか頭がふらふらする。こんなコンディションで走っても間違いなく全力は出せない。全力で走っても遅いのに全力を出せなかったら悲惨なことになるのは見えている。行っても後悔する。行かない方がいい。体調が悪くなったといえば西条だって納得してくれるはず。行かない言い訳ばかりが頭の中を埋めていく。


 それでも――今はあのときとは違う。ここで足を踏み出さなければいつまでもこんなままだ。それだけはわかる。せっかく自分を認めてくれる人がいるのだから、変わるとすれば今のはず。酷い結果に終わったとしても言葉に出してくれた西条は認めてくれるだろう。それにあそこまで言ってくれたのは、きっと藤宮に出て欲しいから。それにきっと桐嶋だって……。最初に体育祭に出るように勧めてくれたのは彼女だった。去年休んでいることを知っている彼女だった。桐嶋も自分に変わって欲しくてそう言ってくれたかも知れないと思えてくる。


 コーヒーをがぶがぶと飲み込んで強引に目を開ける。かっこいいところを見せるという約束は果たせなくても、たとえかっこ悪くても応えないといけないものがある。結果より過程が大事。藤宮は今までこの言葉に違和感を覚えていた。結果の方が大事に決まっている、ずっとそう思ってきた。


 この言葉を今の彼なりに解釈するなら――過程の最中に積み上げられた思いに気づくことが大事なのだ。努力は一人でできると思いがちだが、実は多くの人に支えられていると気づかされる。勉強においても塾や学校の教師、ひいては学習できる環境を与えてくれた親。努力の過程でこういった存在、こういった人たちが自分に向けている思いに気づくことが大事なのだ――


 それなら今の藤宮がするべきことはただ一つ。逃げずに出ること。

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