第43話 終わりの始まり

 朝のうちに桐嶋にプレゼントを渡し終わり、Ⅰ限目が控える。Ⅰ限目は古典。チャイムが鳴って授業が始まると、教師が最も恐れていたことを口にした。


「じゃあ、今からテスト返すぞ」


 ついにやってきたテスト返し。今までの努力が無情にも数字で判断される恐ろしい祭典だ。藤宮の出席番号は遅い方なので余計に心臓に悪い。「あ」から始まる名字のほうが考える間もなく呼ばれるからかえって気楽だと思われる。もちろん、それがいやだという人もいるだろうけど。


「藤宮」


 彼の名字が呼ばれ、重い腰を上げてテスト用紙を取りに行った。会釈をしてテスト用紙を受け取り、席に着く。裏返された紙を開けるのが怖いが、かといっていくら真っ白な紙を見つめていても何も起きない。目標は50点以上、低そうで高いハードル。何せ前回が17点だ。


(これで17点以下ってことはないよな?)


 さすがにないとは思いたいが、もしそうだったら努力した意味がない。これ以上目を背けていてもいいことはないと思い、彼は覚悟を決める。努力しても報われないことだってたくさんあるのに、今までまともに努力してこないと努力が特別なものに感じられ、つい期待した結果を望んでしまう。おかげさまでテストの結果を見るだけで一苦労だ。


 パラッ


 勢いよくテスト用紙をめくり、右上の点数を目に刻む。


 54点。


 胸がすくとはこの感覚なのだろうか。今まで心に立ちこめていた不安がゆっくり薄まって、やがて消えていく気がした。そして、今まで占めていた不安の代わりに充足感が心を満たしていった。


(よっしゃぁぁ~)


 踊り狂いたい衝動を抑えつつ、顔には満面の笑みをつくる。後ろの席の桐嶋が遠慮気味に彼の肩をたたく。テストが終わって平常授業になったため、席が以前のものに戻り、いつものポジションに桐嶋がいた。彼の結果を案じてか、彼女の顔には不安が刻まれていた。そんな彼女を安心させるように、藤宮は笑顔で親指を立てる。桐嶋は彼の様子を見て安心したのか、胸をなで下ろしてほっと息をついた。





 この日はとにかくテスト返しばかりだった。現代文、英語、世界史、そして日本史。幸か不幸かこの日は理系科目の授業がなかったため、文系科目ばかり返された。


(いや~疲れた)


 テスト返しの日はだいたいテストの解説で、授業の半分ほど潰れるのが唯一の幸せ。彼は今日帰されたテストを思い返す。


(現代文73点、英語58点、世界史24点、日本史65点。そして古典が54点か……)


 当初の目標である全科目50点以上は達成できなかったが、なかなかよく出来たほうではないだろうか。つい少し前まで、進級が危ぶまれていた生徒の点数ではない、ちょっと出来が悪い生徒ぐらいは取れたのでは?


(俺にしては上出来だな……)


 この後部活がある。桐嶋だけではなく、西条にも伝えてやろう。やがて授業がすべて終わり、部活に行くために準備していると桐嶋が話しかけてきた。


「どうだった? 今日一日を総括して」

「よかったよ、俺にしてはよくやったほうだと思う」


 やがて二人は教室を出て、部室へと歩んでいく。


「私、まだ点数聞いてないんだけど教えてくれないの?」

「あっ、そういえばまだ言ってなかったか。知りたい?」

「悪かったならいいけど、よかったなら教えてくれてもいいじゃない。私だって、教え子の出来は気になるのよ」

「まぁ部室に行ったら言うよ。綾乃も知りたいだろうし」

「そう……それもそうね」


 彼女はちょっとだけさびそうな表情を見せた気がしたが、藤宮は特に気に留めずに同じペースで部室へと歩んでいく。彼に少し遅れるように桐嶋もまた、進んでいく。二人が部室の扉を開けると、西条はもうそこにいた。


 西条と挨拶を交わし、その後藤宮と桐嶋は部室のそれぞれの定位置に陣取る。


「私のクラスは今日テスト返されたけど、そっちはどうだった?」

「俺のクラスも返されたよ」

「どうだったの? あっ、いやなら無理に言わなくてもいいんだけど」


 彼は少々どや顔して、点数を報告した。それを聞くと西条だけではなく、桐嶋も驚いたように彼のほうを見つめた。


「世界史はダメだけど、それ以外はまさかホントに取れるなんて……」


(どんだけ期待されてなかったんだよ……)


 桐嶋のリアクションはずいぶん大げさな気がした。


「そんなに驚くなよ、桐嶋さんの練習問題でもそれくらい取れてたぞ」

「でも本番になると練習よりも低くなるから、実はちょっと無理なんじゃないかって思ってた。もちろん言わなかったけど」


 どうやら師匠はあまり期待していなかったらしい。今明かされた事実に彼は若干ショックを受けたが、それと同時に彼女の予想を上回ることが出来たことが嬉しくなる。これでも桐嶋なりに褒めてくれているのは分かっていたから。素直さの欠片もないところが、かえって微笑ましかった。


「宏人君、すごいじゃない!ホントによかったね~!」


 西条の声で我に返り、今度は彼女のほうを振り返った。彼女は満面の笑みで、まるで自分のことのように喜んでくれているのが伝わってくる。そんな彼女を見ていると喜びが一層こみ上げてきた。何に対してもありったけの感情を見せてくれる西条は、癒やしを与えてくれる天使のようだった。ふたたび桐嶋のほうに向き直って、彼は口を開く。


「ホントに桐嶋さんのおかげだよ、ありがとう。これからもがんばってみようかな、って思えた」

「そう……よかった。無理しない程度にね」


 お礼は何度言ってもいい。くどいと思われるくらいが相手に伝わってちょうどいい。それにしても今までになく力がみなぎってくるのを感じた。やはり成功体験は人を変える。藤宮はすでに小説を書くのに忙しかったが、それでも並行して勉強しようと思えたくらいだ。


 相対する桐嶋もまんざらでもなさそうにしていた。二人の距離が変わっていったのは当然二人の間でも気づいていたことだが、気づいていた人は二人だけではなかった。もう一人、それは二人のすぐそばにいる人。


 西条はそんな二人をジッと見つめる。特に藤宮のほうを。彼の桐嶋を見る目はどこか特別というか、自分を見る目とは違う気がした。もちろん本人は無自覚なのだろうが。自分に対するものは安心感に満ちているというか、憩いを求めているように感じられるが、桐嶋に対するものはそれとは違うような……


 今、西条の中に渦巻く感情は何なのか彼女自身もうまく言葉に出来ない。それは焦りなのか、嫉妬なのか、それとも両方なのか。いずれにせよその感情がどんどん大きくなって体内で暴れだし、彼女の体が耐えきれそうになかった。耐えようと思っていたが、もはや限界に近かった。そして、彼女の中にかろうじてあった理性の砦が崩壊した。


 ――とられてしまう、負けたくない


 彼女はそう思ってしまった。この気持ちが芽生えた時は、もう遅かった。それがすべての始まりだった。――





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