第12話 きっかけ

 西条と一緒に練習してから二日たってもまだ体が痛い。普段運動しないのが原因なのだがあまりにも情けない。練習当日はそうでもなかったのに、後になって体が痛くなってくるのは何というか中年みたいでかっこ悪い。まだ高校生なのに……。今日は部活もないから早く帰って休みたい。藤宮はそう思いながら鞄に教科書を素早く入れてため息をつきながら席を立つ。


「ハァ~」

「どうしたの、ため息なんかついて。今日はこの後図書委員会よ、鞄を持ってるけどまさかこのまま帰らないよね?」

「ハハハ……そんなことはないぞ、あーはやく図書室に行きたいな-」

「そんな口調で言われても説得力ゼロだけどね」

「う……」


 すっかり忘れていた。今日は木曜日、桐嶋と一緒に図書委員会の当番の日だ。トボトボと図書室に向かっていく藤宮とは対照的に桐嶋の足どりは軽い。もちろん藤宮には気づかれないように少し後ろを歩いているので、藤宮は彼女の様子を知ることはなかった。藤宮と同じ委員会には入れてこの浮つき。なんとも純情でピュアな乙女みたいだと彼女も自覚していた。恋は人をかえる。それは悪いことではないし、むしろいいことなのかも知れない。


 二人は図書室に入ると図書委員が座るカウンターに腰掛ける。図書委員は基本的に貸し出しを希望する人がいなければ自由にしていい。藤宮は最初はパソコンを取り出して小説の続きを書こうと思っていたが――


(キーボードの音って結構うるさいよな? 何か別の事したほうがいいか……)


 特に図書室を自習に活用している生徒からしたらうるさくて勉強に集中できないかも知れない。しぶしぶ彼は小説を書くことを諦め、何かないかと鞄の中をあさる。


(そういえば桐嶋からもらった単語帳があったな……)


 貰ってからしばらく経つが語彙力はなかなか上がらない。しかし、何事もそんなに簡単にうまくいくものではないことを彼はよく知っているので、そこまで気にしていない。


 渾身の力作を書いてやったと思ってもなかなか小説投稿サイトで読まれないとき、ようやく書籍化できても常に売り上げとの戦いで以前は楽しんで書けていたのに楽しめなくなったとき。自分の作品よりも面白い小説にたくさん出会ったとき。こうやって少しは世の中の厳しさを知っていたから苦手なことにも取り組めたのかも知れない。


 自分にとっては得意のはずの小説でさえこの有様なのだ。勉強や運動がそう簡単にいくはずがない。そう思い、英単語帳を開いて勉強を始める。小説だけで生きていけるほどの力は自分にはないのだから進路を広げるためにできる限りのことをしないと。


 そんな彼を桐嶋は課題のプリントをやりながら傍目で見る。最近藤宮は授業中に起きている時間が長くなっているし、ただ起きているだけでなくて自習をしたり話を聞いたりとちゃんと勉強に向き合っている。そんな彼を見ると桐嶋の頬は思わず緩んでしまう。


 何も優秀な成績を取って欲しいだとか、いい大学に行って欲しいといった教育熱心な母親みたいなことは思っていない。ただ、なんとか進学できるようになって欲しかった。この学校は高卒で働くには向いていないから、せめてなんとか進学できるようにならないと彼は路頭に迷ってしまう。彼女がここまで藤宮のことを心配するのには当然訳があった。


 彼はもうすっかり忘れているのだが、彼女の脳裏に深く刻まれた出来事。そう、半年ほど前のこと。ちょうど去年の文化祭のころだった。文芸部は文化祭の時に部誌を発行して、そこに部員全員の小説が載せられることになっている。当然彼女も自作の小説を念入りに準備して、そこに掲載した。彼女の自信作だった。


 自分と人の価値観が違うことはよくわかっている。何を面白いと感じるかは人それぞれだ。だから誰もが好きな作品なんておそらく存在しないし、有名作品にだってアンチはいる。もちろんそんなことは百も承知だったのだが、感情は別だった。


 聞いてしまった。それは部誌をクラス全員に配り終えて段ボールを処分しに行ったあと、再び教室に戻ってきたときにおきた。二・三人だっただろうか、彼女たちは部誌をペラペラめくっていて……


 ――これ、よくわかんなかったね――


 ――私もそう思うな、ちょっと微妙――


 まさか自分の作品じゃ……そう思い、耳をそばだててわかったことは――彼女たちの話に出てくる人物と自分の作品に出てくる人物の名前が同じだった、ということ。聞こうとしたことを後悔した。そして残酷なことに彼女たちはいわゆるアンチではないのだ。いたって普通にその作品について話していた。


 もしその作品に作者名が書いてあったら、彼女たちも同じクラスの人の作品を悪くいわなかっただろう。仮に言われたとしてもそれは自分のことが嫌いだから悪く言うのであって、作品自体が面白くないわけではないというせめてもの言い訳もできる。しかし、あの部誌は作者名が伏せられている。だから彼女たちの言葉は純粋に作品を読んで出た言葉。


 何もわかってないくせに……そんな感情もわいた。たった数分読んだだけで何がわかる。そう言ってやりたかった。しかしそれ以上に桐嶋は自分の作品に対する自信がみるみるうちに失われていくのを感じていた。もうどうでもよくなった。



 文化祭が終わって放課後になっても、彼女はまだ教室に残っていた。手にしていたのは数枚の原稿用紙。彼女が部誌に掲載した小説の原稿だった。もうこの小説とはお別れだ。もしかしたら文芸部とも……今はもう何も書ける気がしないから。そう思った彼女は、教室の後ろにあるゴミ箱に近づいていく。ここに自分の作品をぶち込んでしまおう、自分の黒歴史だ。しかしゴミ箱に近づくにつれて手が徐々に震えてくる。ああ……自分はまだこの作品に未練がある、そう感じられてますます嫌な気持ちになる。


 パラッ


 震える手から一枚の原稿用紙がすり抜けていった。そして、その紙は放課後になっても寝ている藤宮の机の近くへと舞い降りていった。急いで取りに行こうとする桐嶋の足音に彼も目を覚ます。


「ヤバッ、めっちゃ寝てた!」


 そう言って急いで帰ろうとする藤宮は、足下に一枚の紙が落ちていることに気づく。


「?」

「見ないでッ!」


 桐嶋はそう叫んで紙をひったくるように取った。


「何でいるのよ!?」

「何でって、さすがにひでぇな」

「あなた、学校行事とか興味ないでしょ!? どうしてこんな時に限っているのよッ!」

「えっと……一応物書きとして文芸部の部誌に興味があったから来て、読んだ後寝ちゃった感じかな」

「!?」


 それを聞いて彼女はますます顔を赤くし、目には怒りが帯びていた。彼は、桐嶋が文芸部の部誌という言葉に反応していたような気がした。文芸部の部誌、今手に持っている原稿用紙、そしてやたらそれを見られたくなさそうな様子。なんとなく藤宮は事情を把握した。


 あの部誌に書いてあった小説はどれもレベルが高いと感じたのだが、今の彼女にそれを言っても効果はないことはわかっていた。むしろ気を遣われたと感じてより怒り狂うだろう。


 自分の作品を否定されるのは辛い。ネットに小説を投稿していたときも、そして書籍化したときもその気持ちは変わらない。ネットや書籍ならまだ応援してくれている人の存在がわかるからメンタルを立て直すことができる。でも部誌ではいいと思ってくれている人の存在がわからないから、なお辛いだろう。なら彼女に言えることはただ一つ。


「なぁ、ほんのちょっとだけでいいから自分の作品には自信を持とう。誰になんと言われようとも、自分だけは自分の作品のファンでなくちゃダメだ。作者にも認められないなんて作品がかわいそうだし、作品に出てくるキャラもかわいそうだよ。望んで生み出したんだ、だから小説だけは幸せにしてあげないと。だから捨てるなんてことはするなよ?」

「――」


 その時点で救われたかどうかは彼女にはわからなかった。ただ胸の中にあったどす黒い何かが浄化されていく気がした。もともと評価されることを目標として書いていたはずではなかったのだ、ただ紙の上に素敵な世界をつくりたかった。そして、その世界を見守って行けたら……どす黒いものが晴れて、作品をつくるうえでもっと大切な何かを取り戻せた気がした。今はまだペンを握れなくても、いつかまた書きたいと思える日が来るまで文芸部にいたいと思った。


 あのときの彼の言葉は一言一句胸に刻まれているし、おそらくずっと彼の言葉を思い出しながら生きるのだろう。桐嶋はまだペンを握れていない。やはり自分の作品を否定されたあの瞬間が何度も頭の中で繰り返される。それでも藤宮となら、彼がいる今なら……。藤宮だって自分が苦手なことに向き合って、少しではあるが頑張っている。だから自分も……、桐嶋はそう思った。

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