第27話 食い違い

 木曜日の放課後、久しぶりに図書員の当番が回ってきた。藤宮と桐嶋は二人して椅子に腰掛けて、互いに干渉せずにそれぞれ勉強に入る。テストまで一ヶ月だが、進学校であるこの学校の生徒は意識が高い生徒が少なくない。テスト対策を始めているのは何も藤宮と桐嶋だけではない。だから、この時期の図書室を利用する人の多くは自習に活用している。そのおかげ本を借りに来る人は少なくて二人の勉強も阻害されなかった。


 とうぶんの課題は古文だ。藤宮は通販で買った古文の単語帳を睨みつける。桐嶋がおすすめしてくれた古文が苦手な人のための単語帳なのだが、最初の数ページ時点で八割くらいわからない。もちろんページをめくるにつれてわからない部分は増えていき、しばらくするとわからない部分は十割になった。


(あ~、ダメだ。最初の一〇ページが限界か)


 ページを戻して最初に戻る。次によくわからない文法書を広げてみる。助動詞の活用形一覧が目に入り、彼はそっとページを閉じた。これ以上見ることを目が拒否していたので仕方がない。


(……先は長い)


 目の前にそびえ立つ山の高さを改めて感じたところで、藤宮は顔を上げて周囲をぐるりと見渡してみる。ペンを走らせる者、首をひねって問題に向き合っている者。みんな何とかしようと食らいついていた。そんな彼らに感心しながら視線を近くに戻し見ると――


 そこには無防備な姿の彼女がいた。近くに寄っていかなければ聞こえないほどの音の寝息を立てて、目を閉じている桐嶋がいた。窓からの日に照らされた彼女は寝顔といえども美しく感じられた。それでも、寝顔をさらす彼女の姿はあどけなさをはらんでいて……美しさとかわいさがうまく調和していた。


 彼女の顔の造形を崩さぬようにそっと近づいて、それでも近づきすぎるのは憚られて、一歩離れたところから寝顔を見守る。見る人が見たら犯罪者ともとられかねないが、幸い図書室の利用者は全員勉強に集中しているらしく誰も気づいていない。ヒミツで危険なこの空間を一人で楽しむ。しかし――


(疲れてるんだろうな……)


 しばらくしたら自責の念に駆られてしまう。椅子に座りながら寝てしまうほど彼女が疲れている原因は間違いなく自分だから。もう一人の、しかも相当な落ちこぼれの面倒を見ているのだから疲れるに決まっている。しかも桐嶋は教えるだけでなく、問題を自作してそれの答え合わせ、解説までしてくれている。いくら自分の勉強が余裕だとしてもある程度はやる必要はあるだろうから、実質二人分の勉強量をこなしていると言ってもいい。


 そして、彼女はそのことに一切の弱音を吐かない。懇切丁寧に彼のために教えてくれる。それが原因なのか彼は桐嶋の負担の重さをすっかり失念していた節があった。いや、目をそらしていたといった方がいいのかも知れない。気づいていないふりをしていただけなのかも知れない。だが改めて真面目な桐嶋が委員会の途中で寝ていることから嫌でも目を向けさせられる。今の彼女は間違いなくキャパオーバーだ。


(やっぱり俺一人でやった方がいいかも)


 それなら弱気なことは考えていられない。もう一度古文の単語帳を開いて最初から読むことにした。











「そろそろ起きて、もう委員会終わったから」

「……ふにゃ、はぁ……う~ん」

「もう図書室閉めないと、ほら早く」

「……あれ? もしかして私、寝てた?」


 彼女はようやく起きると、椅子から立ち上がるとそそくさと帰る準備を始める。支度をしながら彼女は藤宮に問いかけた。


「うん、ぐっすり」

「どうしておこしてくれなかったの? あれだけの時間があったら、自分の勉強に充てられたのに」

「だからだよ。少し休んだ方がいいよ、最近ずっと眠そうだよ」

「……大丈夫よ、ほんの少し疲れてるだけだから」

「そんなことなさそうだけど」


 なにしろ、彼女はまだ眠いのかふらふらしているのだから。これは大丈夫では済まされない。彼女の体調を考えたら自分の選択は間違っていない、そう言い聞かせる。彼女との勉強は楽しかったし、英語に関しては自分が伸びていく実感もあったが……


「俺、やっぱり勉強は一人ですることにしたから大丈夫だよ」

「――!?」


 なるべく桐嶋を突きはなさないような言い方で、彼女との時間を終わらせることにした。これ以上桐嶋に負担はかけられない。今後も桐嶋とは文芸部で活動していく必要があるから、なるべく突き放すような言い方はせずに。


「どうして? 私の教え方、下手だった?」


 彼女の顔が青ざめていくのが気になった。まるで自分の大切なものがなくなってしまった後みたいな表情。手を伸ばしているのにそれがどんどん遠くに行ってしまったかのような表情。


「いや、そんなことないよ」


 ここで彼が下手だったと言えば、結論は見えている。桐嶋は彼の態度に怒るだろうし罵倒するだろう。当然だ、教えてもらっておいて教え方が下手だと言うのだから。やがて藤宮に愛想を尽かして教えるのをやめるだろう。だがそれではあまりに忍びない。事実に反するし、今後の関係もある。


「……桐嶋さんの体調が心配なだけだよ、それに自分の勉強もあるでしょ?」

「だから私は大丈夫、それに人の勉強の心配をするくらいなら自分の心配をした方がいいよ?」


 だからといって、正直なことを言えばこの反応である。迷いながらも正直に言うことにしたが、結局帰ってくるのはいつも予想された反応。どうすればいいのかわからない。


 桐嶋の顔から猜疑心が溢れだす。藤宮はその表情を彼の意見に対する抗議だと捉えた。どうやら彼女は自分を放ってはおけないらしい、彼はそう感じた。


(今は何も言っても聞かないな)


 説得失敗。これ以上空気が悪くなるのも嫌なので、今日のところはこの話題を出すのをやめておこうと感じた。


「……そっか。体調悪くなったらすぐに言って」

「……もし悪くなったらそうするかも」


 いまだに彼女の表情は険しい。やがて不安が彼女の顔に刻まれていくが、藤宮はそれを特に気にするわけことなく、図書室の鍵を閉めて職員室に返しに行った。戻ってきたときには桐嶋はもういなかった。どうやら待ってはくれなかったようだ。


「はぁ……」


 まさか彼女がここまで強情だとは思わなかった。そこまで自分のことを放っておけないのだろうか、それとも何か他の理由でもあるのだろうか? いくら自分の成績が悪いからといっても、ただ放っておけないと言うだけにしては不自然な気がした。


(まぁ、意外と委員長キャラなところあるし、こんなもんか)


 違和感を拭い去ると藤宮は一人で帰路につく。今日は天気が悪くて日差しがいつもより弱いせいか、いつも見ている景色が深い闇に侵されている気がした。

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