第28話 違った顔
ぜぇぜぇ……はぁ……
授業中、後ろから聞こえてくる辛そうな息づかいに藤宮は思わず気をとられてしまう。昨日の図書員の時から心配していたことがどうやら現実に起こったようだった。彼の後ろにいる桐嶋は明らかに具合が悪そうだ。なんとか悟られまいと声を押し殺しているが、それでも彼女のすぐ前にいる藤宮には聞こえていた。
(保健室に連れてくか……)
この授業が終わったら無理矢理でも保健室に連れて行って、彼女には休んでもらおう。板書のメモをとりながら藤宮はそう考える。
(それにしても、思ったより早かったというか……昨日の時点で疲れてるとは思ってたけど、まさか一日で体調がこんなに悪化するとは)
しかも昨日ああ言った後だというのに……。それほどまでに疲れていたことに気づけなかった自分が嫌になる。彼は嫌悪感を飲み込んでペンを取った。
頭が痛い、体が不自然に熱い。咳が出そうになるが手を口に当てて必死に我慢する。
(昨日藤宮君に言われたばかりなのに……いや、あんなことを言われたばっかりに)
やっぱり一人で勉強できると言われたあのとき、真っ先に浮かんだのは自分の教え方がまずかったのではないか? という不安だった。しかし、藤宮が仮にそう思っていたとしてもそれをはっきり口に出すとは思えない。だから自分の体調が心配だという理由をとってつけたと思い込んだ。なぜなら、その時は自分の体調が悪いという自覚がなかったのだから。
それに、あのときの彼は理由を答える際に少し戸惑っていたというか、間があったというか。あの間があったからこそ、尚更そう思ってしまった。言いづらいことが本当はあって、それを隠すために優しいうそをついたのではないか、と。
だから昨夜は張り切りすぎた。今までの自分の教え方を見直したし、もっと丁寧に解説を書こうとした。もちろん自分の勉強もしながら。いくら早めに対策しているからといっても、まったくしないわけにはいかないから。自分としては楽しかった、ただそのせいで尚更自分の体を見つめ直すことができなかった。
(それで頑張りすぎて結局藤宮君の言うとおりになっちゃうって、バカみたい)
朝起きたときには少し具合が悪い程度だったので普通に来ることができたが、学校に来たせいかどんどん体に熱が帯びていくのがわかった。周りに、特に藤宮に悟られないように辛そうなそぶりを見せないようにしているが、それでも息が漏れてしまう。気づかれるのは時間の問題だろう。
(はぁ~、私、ホントに面倒くさい女になったなぁ)
いつの間にかこんなになってしまった。それもこれも全部藤宮のせいだ。欠点も多いくせに、それ以上に魅力も多い。何気ない気遣いができて、本当に辛いときに手を差し伸べてくれて、欲しいときに欲しい言葉をくれて……。
だから、そんな彼だからこそ自分の目の前からいなくなってしまったら、そのときは――他の苦しさとは比べものにならないぐらい、周囲が何も見えなくなるぐらい、痛くて辛くて苦しいに決まっている。
そしてこのまま何もせずに手をこまねいているだけでは、その苦しみが現実となって襲ってくる未来が見える。西条は彼に与えたから、ちっぽけに見えて彼にとっては大きな成功体験を。だからこそ、今度は自分ができる限りのことをしようとしただけなのにそれすら空回りして……今ではみっともない姿をさらしている。桐嶋はそんな自分自身に対して激しい嫌悪感に襲われる。
集中力を欠いて受ける授業はいつもより長ったらしかったが、終わりを告げるチャイムがなった。だが、それでも彼女は机に突っ伏したまま動こうとしなかった。いや、体が重くて動けなかった。
「桐嶋さん、保健室に行こう」
そんなときに彼女の耳に届いた声。その声の主は彼女が何度も聞いてきた人。何気ない気遣いができて、欲しいときに欲しい言葉をくれる人。彼の声は桐嶋の意思を聞くのを拒んでいた。どうやら彼の中では決定事項らしい。彼女はゆっくりと顔を上げて、藤宮を見上げる。
「私は大丈夫だから……」
「いや、そんなに体調悪そうなんだから絶対行かないと。ほら、立って」
最後の抵抗を試みてみたが無駄だった。重たい体をなんとか動かして机から引き剥がすが、立ち上がった瞬間ふらついてしまう。
「――」
バランスを崩した彼女の目の前に差し出された彼の手。無言でぶっきらぼうだったが、優しさに溢れた手。藤宮の手を取って何とか立った状態をキープする。彼は桐嶋の方をチラリと見て彼女の様子を確認すると、ゆっくりではあるが力強く彼女の手を引いていく。
「……ありがとう」
「別に気にしなくていいよ、それよりもっと早く気づけなくてごめん」
「あ……」
彼はあろうことか自分を責めていた。先ほどまでは藤宮が悪いだなんて思っていたが、いやそう思おうとしていたが本当はわかっている。直接的な原因は自分なのに結果的に彼に責任を負わせてしまった。今の藤宮はもともと自分が体調が悪かったと思ってしまっているが、それは違うことを伝えないと。
「あのっ」
「?」
「藤宮君は悪くないよ。ちょっと色々あって私が寝不足になっただけだから」
「いろいろって勉強?」
「……うん。ちょっといつも以上に」
彼女の答えを聞くと、藤宮は少し険しい顔をして黙り込む。そのせいで二人の間には静寂の時間が流れた。廊下を歩く二人の足音、授業をしている教師たちの声の二つだけが校舎内に響いているが、今の二人にはどちらも聞こえていなかった。
「桐嶋さん、もしかして俺が言ったことを気にしてたりする?」
「え?」
「昨日俺が言ったことって、俺が桐嶋さんをやんわり拒絶してるようにも捉えられるかなって思ったから。思い違いだったらごめん」
「……」
まだ何も言っていないのに……。この察しの良さというか、頭の回転のはやさを勉強に活かして欲しい。そんな小言を言いたくなるような、まるでこちらの思考を覗いていたかのような彼の言葉。返答に詰まった彼女はジッと彼の顔を見つめることしかできなかった。
「あれ、もしかしてそうだった? それならごめん、俺はそんなつもりじゃないよ。桐嶋さんの説明わかりやすいから、俺としては引き続き教えて欲しいと思ってるよ」
「……」
「ただ、俺のせいで桐嶋さんに不利益があったら嫌だと思うだけで」
なんとも些細な出来事だ。一方的に誤解して、一方的に迷惑をかけてしまっただけの出来事。そんなつまらない出来事に勝手に巻き込んでしまって、今更何を言えばいいのだろう。体だけでなく心までもが重くなっていく。
「ごめん。それと、ありがとう」
だからそれしか言うことができなかった。本当にこれでよかったのか、そう思って恐る恐る横の彼を見るとちょっと微笑んでいる。
「今日は早退した方がいいと思うけど、治ったらまたお願いしていいかな?」
この察しの良さと気遣いが、重たかった体と心を軽くしてくれた。
「……うん!」
いつもなら恥ずかしくて、もう少しはっきりしない態度をとったりもう少しあたりを強くしたりしていたかも知れないが、今は心のままに振る舞う。心が軽くなった反動か、それとも普段の態度の反省か、自分でもわからないがおそらく両方。
素直な彼女の笑顔は、体調の悪さを感じさせないくらい輝いていた。目が吸い寄せられてしまうほど、一度吸い寄せられたらずっと見続けてしまうほどだった。おそらく時間としてはそれほど経っていないのに、ずっと長く見続けていたような感覚。時が止まった、というのはこの状態のことを言うのだろう。
やがて彼らは保健室の前までたどり着く。
「本当にありがとう、今日はゆっくりするから」
「うん、そうして」
元気になったらまたいつものスパルタ。そう考えると、今しかないかも知れない素の彼女からいろんな反応を引き出してみたいという欲求に襲われた。
「バイバイ」
いつもの彼女とは思えない親しみのこもった別れの挨拶。にこやかな笑顔で彼の方に手を振っている。
「今の桐嶋さん、とっても可愛いよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、からかうような口調で彼女の反応を伺う。
「……いつもは可愛くないの?」
「いや、別にそういうわけじゃ――」
「……イジワル」
すねたような口調で、プイッと顔をそらして呟く彼女の頬は朱色に染まっていた。顔が赤いのは熱があるからだけではないはずだ。いつもと違う桐嶋から、彼女は自分が考えていたよりもずっと自分のことを大切に思ってくれていることがわかった。嬉しさと恥ずかしさが入り交じった感情を抱えて彼は教室へと戻った。
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