第29話 揺れ始める三人目

 保健室に行った桐嶋は高熱が出ていたことが発覚し、早退することになった。そのため放課後の部室にいるのは藤宮と西条の二人だけ。誰にも邪魔されることのない密室空間で女子と二人きり。何もしていないのに、というか合意せずにしてはいけないから何もしてないのは当然ではあるのだが、この状況だけでまるで自分が間違いを犯しているみたいな気がしてくる。


(気まずい……)


 西条の方も変に意識しているのか、まったく話しかけてこない。もちろん彼の方から何か話を振るのはコミュニケーション能力の兼ね合いで不可能とわかっているので、部室の中は沈黙に包まれた。当然気まずさもあるのだが、西条も自分と同じように緊張しているのかと思うとなぜか嬉しい。天と地、日向と日陰、おそらく西条と自分にはこの比喩が言い過ぎではないと感じるくらいに差がある。そんな彼女が自分と同じ感覚でいてくれる。少しでも自分のことを意識してくれている。我ながらかなり気持ち悪いが、もし意識してくれているなら何より嬉しい。


 こんな気持ち悪い妄想に浸っていると、唐突ではあるけどおそらく避けては通れない考えにたどり着く。自分は彼女、いや彼女たちをどう思っているのだろうか? 意識してくれて嬉しい? それは何を意味するのだろうか? 今自分が抱いている気持ちは、自分が彼女たちに向けている気持ちは文芸部の仲間としての気持ちなのだろうか? それとも……


 学校の中では文芸部は割と気に入っている。交わされる言葉は少なくてもわかり合える桐嶋と西条の友情があって、明るく接して自分を暗闇から引き上げてくれる西条がいて、なんだかんだ言いながら手を引いてくれる桐嶋がいて、彼女たちに応えようとして、できれば何かを返したいと思っている自分がいて……というような彼にとって理想的な文芸部がそこにはあった。いや彼はまだそこにあると信じていた。後になってみれば虚構にすがって自分に蓋をしているとしか見えなくても、少なくとも今、このときの彼からすれば、せっかくできあがった学校の中で居心地のいい確かな実体を守るために頑張っていた。


 「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、それを実際に体験してみたいとは思わない。彼女たちはヒロインのモデルであって、ヒロインではない。藤宮はそう自分に言い聞かせた。





 西条がふと顔を上げて部室を見渡すと、険しい顔をしている藤宮がそこにいた。彼が何を考えているのかわからない。でもそれは当然かも知れない、自分が何を考えているのかもわからないのだから。自分の中に潜んでいた彼への想いを見つけ出すことはできた。だが、この先に進んでいいのかわからない。なぜなら、おそらく桐嶋だって彼のことを……今までの行動から、そして最近の行動からそれはわかる。自分の気持ちがわかったことで、見えてくる世界がある。そこで初めて、世の中には見えなくてもいいことがあることがわかった。見えてしまったからこそ、立ちすくんで動けなくなってしまったから。


 そして何より彼が何を望んでいるかわからない。彼の気持ちは何処を向いているのか、自分なのか桐嶋なのかはたまた……自分の独断でこの部活を、今はまだ居心地のいいこの空間をかき乱すのは気が引けた。何も動かないことが彼が望むことなのかも知れない。いや三人が何も動かないことこそが正解に近いのだろう、と彼女は思いなおす。三人がそれぞれの想いに蓋をして、顔には本音をごまかす笑顔を貼り付けてずっと過ごせば何も起きない平和な空間を作り上げることも可能なはず。だが、頭ではわかっていても……理屈でどうにもならないことがある。先人たちが言うにはそれこそが恋なのだ。


「綾乃、顔色悪いけど大丈夫?」


彼女が考え事をしていると、不意に藤宮から声をかけられる。どうやら考え事をしているうちに、心がそのまま顔に映っていたらしい。


「えっ? べつに私は元気だから大丈夫だよ」

「ならいいけど。ただ、綾乃まで体調悪くなったのかと思って心配で……」

「私は大丈夫、それより宏人君の方こそ大丈夫? さっきまでは宏人君も険しい顔してたよ?」

「そう……俺も大丈夫だから気にしないで」


 考え事をしていたのが顔に出ていたのだろうか、いずれにせよ今ここにいるのはまずい。藤宮はそう感じる。いろいろなことを考えてしまって、必要のない余計なことにまで気を回してしまって精神衛生上よろしくない。


(それにしても今日に限ってなんでこんなこと……)


 いつもはそこまで意識しないのに、どうして今日に限ってこんな余計なことを考えてしまったのだろうか。西条と二人きりだから? それとも桐嶋のいつもと違う反応に魅入ってしまったから? それはまだわからない、本当にわかるのはいつになるのだろうか。とりあえずここから出たかったので西条に話してみる。


「今日はもう帰っていい? 俺、色々疲れちゃって」

「……うん、じゃあ私も帰ろっかな」

「……そうなんだ」


 今は一人で帰りたい気もしたが、断るわけにはいかないので彼女と並んで帰ることになった。今までに比べたら一番静かな下校だったが、そのせいか今までに比べて心臓の鼓動が一番聞こえた。

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