第40話 踏み出した一歩目
テストが終わって学校生活は普段の日常を取り戻していく。文芸部の活動も再開され、藤宮たちは約三週間ぶりに部室に入った。六月も下旬になってとっくに梅雨に入り、日本特有のじめじめした気候に悩まされる日々。湿気が充満した部室は、衣替えをして夏服に着替えても蒸し暑く感じられた。
部室の窓から外を眺めると、空は飽きずに今日も雨を降らしていることがわかった。どんよりした空を見て西条は思わずため息をつく。そろそろ仲が深まってきたので、藤宮を誘ってどこかへ出かけたいと思っていたがなかなか天気が許してくれない。愚痴は心にしまってふたたび執筆に戻ろうとしたとき、桐嶋が本を読み終えたのかパタンと本を閉じる音がする。その後、彼女はカバンの中から原稿用紙とペンを取り出して紙に何かを書き付けているようだった。
(!?)
西条は思わず二度見してしまう。去年の文化祭以来、めっきり書くのをやめてしまった桐嶋がもう一度ペンを取っている。あのとき彼女は何があったのか教えてくれなかったが、ペンをとることが嫌になる出来事があったのだろうということは想像できた。踏み込まれたくないことは誰だってある、そう思うと西条が自分から聞くのは気が引けた。桐嶋が自分から話し出すのを待とうと決めたが、本人が堅く口を閉ざしていたのでその選択が裏目に出てしまった。その結果今さら聞こうにも聞けず、ただ見守ることしか出来ていなかったのに……。
一体何が桐嶋の心を変えたのだろうか。西条は答えが予想できる問いを自身に問いかける。ずっと一緒にいた自分は何も出来なかったのに。それが悲しくもあったが、桐嶋がもう一度ペンを取ることが何よりも嬉しい。それは本心からの気持ちだった。声をかけようか迷ったが、けっきょく西条は声をかけるのはやめた。今の彼女には、自分の言葉より集中できる時間のほうが必要だと思えたから。桐嶋を見つめる彼女の目は優しくて、それはまさに親友を見つめる目だった。
桐嶋は夢中で自分の頭に浮かんだことを文字という形に残す。それは少し前まで、いや今でも恐れていることだった。去年の文化祭、部誌に掲載した自分の小説を否定されてからずっと怖かった。好きだったものが嫌いになった。また否定されるのが怖くて、ずっと逃げてきた。だがこのままではいけない、それだけは分かっていた。桐嶋が足を踏み出すきっかけは、やはり藤宮の存在。彼もまた逃げ続けた人間。勉強から逃げ続けてきた結果、彼は進級さえも危うかった。だが彼は向き合うことを決めて努力し、そしておそらく成果を出すことだろう。そんな彼を見ていたら自分もこのままではいけないと感じた。何より彼に逃げずに向き合うことを強制した自分が逃げていてはいけない。一時逃げるのはしかたがない、だが逃げ続けていたらいずれ後悔する。
桐嶋は自分の中の想いを文字におこす。どん底に沈みそうだった自分に手を差し伸べて引き上げてくれた人、そしてふたたび歩み出すきっかけをくれた人のことを想いながら、新たなストーリーを生み出す。
(ハイファンタジーにしようかな?)
ハイファンタジーで純愛モノ。現実で実現するか分からないことだったから、つい異世界の出来事にしてしまう。あくまでこれは理想のエンディング。
魔物が潜む世界で、かつて魔物から自分を救ってくれた少年に少女は恋をした。しかし、少女はそれ以上少年と深く関わることになるとは思っていなかった。その時の少年は人に興味がなさそうだったから。だか半年後に二人は再会する。少年は最初の出会いを忘れていたが、彼自身の周囲と向き合うことを込めた。二人は互いに助け合い、補い合い、やがて想いあう。少女は少年に感謝と愛を伝えて――
(だいたいこんな感じかな……)
大雑把なストーリーを決めてから彼女は書きはじめた。ストーリーは大雑把すぎるが、今はとにかく自分の気持ちを文章にのせたかった。辻褄が合わないところはあとで直せばいい、それより今しか書けない文章があるはず。それを書きたかった。
集中するとあっという間に時は流れる。桐嶋が原稿用紙に向き合っている間に時計の針はずいぶん進んだ。彼女が顔を上げると、もう部活終了時間に迫っていた。
「すっごく集中してたね? 小説、書けるようになったの?」
「うん。ようやくね」
「よかったぁ~。ずっと何も書いてなかったからちょっと心配だったんだよ。それと、気を張りすぎないように、ね?」
「うん……ありがと」
西条の言葉に心が温まり、さっきまで集中して険しかった顔に笑みがこぼれる。部室の片付けを済ませて帰り始める三人。校舎を出るとあれほど降っていた雨はやんでいて、曇り空がひろがっていた。
「そういえば、小説はどんな話なの?」
彼女の方を向いた藤宮が問うてきた。まさか自分が小説登場人物のモデルだとは思っていないだろう、そう考えると可笑しくなってくる。彼女はちょっとだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「それは、ヒミツ」
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