第一章

第一章 第一節 野望の道具  ※

 たどり着いたのはペルシャの山の洞窟であった。皮肉な事に祖国に近かった。


 「皮肉なものよ。逃れようとして逃げ延びたにも関わらず逆戻りとは。暗殺者どもの差し金かな。大魔も落ちたものよ」


 せせ笑う神官。しかし、その後凍りつく声が響き渡る。


 ――貴様がダエーワ・マグスとその国の王子か?


 いうやいなや暗黒の大地から闇の煙が噴出し、見せたその姿は……魔王アンリマンユの最終兵器とも言われる王子ダハーカであった。


 「我は光の神ミスラの神官なるぞ。暗黒に魂を奪われるものか!」


 全身を震えながら声を発していた。相手は暗黒竜にして魔王子なのだ。


 「ほお、果たしてそうかな……」


 王子ダハーカは三口、三頭、六眼をぞれぞれ光らせ、口から不気味な黒き煙を泰然自若たいぜんじじゃくの構えで吐き出した。霧は二人を包み込み、二人はやがて見えなくなった。


 二人は喘いだ。霧が鼻腔や口、肺の中にまで入り込んでいく。やがて全身を痙攣けいれんさせ、二人の瞳はやがて赤き炎の瞳を灯した。顔や手の肌の中で血管が蠢く。が、霧は恍惚こうこつの快感を覚える味であった。魔王子は自ら発した濃き霧を通じて、自我を失った神官の心を弄る。


 闇の霧を通して見たものとは……それは全てを奪われ 闇に追われし神官の姿であった。

 平安と未来を求めるため力を求めた神官は、やがて謀略に溺れ、希望を拒むほど追い詰められた姿。 光と正義を求めるあまり悪とされたものに対する迫害、権力闘争、戦争。これが光の神の教えの結果であった。


 虚無のごとしなれど……生への慈愛を持つ神官の姿。にもかかわらず、己が罪を重ねるたび深い悲しみを持つ神官の姿。やがて自分も刃を向けられる存在に成り果てた闘争の敗者。それが彼の姿であった。


 闇の種は答える。


 「そなたのために心へ潜り込んで分かったこと。それは我兄弟とそなたが同一の心を持ち、苦しみを持つ者であること。そなたが本来もとめているものは静謐せいひつ。そして我々と同一の存在たる闇と共に闇の種族たる我々に粛然しゅくぜんの世を創る。それがそなたの今の使命。 安息の光は闇にもある。そなたは安息を人に与えるべく生まれた神官なのだ」


 この声を聞くと神官の顔が康寧けんれいに満ちた。


 「光の神は闘争しか生まぬ。それは偽りの神、邪悪の神にすぎぬ。真の神は人に安隷と知恵と平穏を与えるもの。そして我がその神の子」


 神官は煙を聞きながら、闇を享受していた。


 「よしザリチュよ、ではそなたの鱗を」


 神官は目を剥きながら苦しげな声を出すだけであった。見えない力で声を封じられていたのであった。

 ザリチュは己の鱗を抉り取る。闇の煙が噴出する鱗を手のひらに載せた。そのまま神官を掌で貫き、鱗を埋め込んだ。掌を抜く。神官の体躯の変化はすぐに始まった。


 暗黒の血肉を受け入れば受け入れるほど体は楽になる、狂気も安らいでいった。ならば我も自身へ祝福せねばならぬ。

 ―― 世に安零を

 神官がそういって印を結ぶと神官の皮膚が黒に染まる。

 ―― 世に永遠の安らぎを

 次に神官が印を結ぶと神官の皮膚が暗黒色の鱗に覆われていった。袖から鱗が見えてくる。頭部も鱗のみとなった。

 ―― 修羅の世に永遠の安らぎを

 次に神官が印を結ぶと神官の両足が膨れ上がり、下半身の衣服が千切れ飛び骨音を鳴らしながら闇色の光沢を解き放つ鉤爪が両足共に伸びて行く。

 ―― 修羅の世に変える者へ鉄壁の守りを

 次に神官が印を結ぶと神官の胴体が膨れ上がり……上半身の衣服が千切れ飛び骨音を鳴らしながら闇色の光沢の鱗がより強固なものになっていく。胸部や腹部は蛇腹となった。

 ―― 修羅の世に変える者へ死の制裁を

 次に神官が印を結ぶと肩から巨大な瘤が生まれるやいなや次々流れ……骨音を鳴らしながら神官の両腕が歪に伸びながら膨れ上がり、衣服の切れ端を床に落とし……闇色の光沢を解き放つ鉤爪が今度は両腕から誇らしげに伸びて行く。


 肩から瘤の供給が止まった。両腕も両指も再び自由となったことを確認する。生彩せいさいに溢れる呼吸とともに激痛は快感へと変わった。


 己の指も爪も腕も躰全体も完全なる闇の存在へ変貌することを渇望していた。ならば印をまた結ばねば。


 ―― 修羅の世を広める人間へ制裁を

 次に神官が巨大な両腕と鉤爪を振るいながら印を結ぶと神官の腰から尾が膨張しながら伸びて行き……最後に背びれと尾びれが黒き血飛沫ちしぶきを上げながら生えて止まった。

 ―― 闇の福音を広める者へ祝福あれ

 次に神官が巨大な両腕と鉤爪を振るいながら印を結ぶと背中に左右の瘤が出来、やがて瘤が破裂すると瘤だった場所から暗黒色の帳が下りた。翼であった。断罪に満ちた羽音を鳴らす。

 ―― 闇の福音を広める者へ栄光あれ

 最後に神官が高等呪文を唱え巨大な両腕を振るいながら印を結ぶと耳はとがり巨大化し、口は漸々やくやくと裂け、牙はくっと伸びて行く。人間の風貌の名残がまだ残っていた顔や頭部を一旦へこませながら己の呼吸と共に徐々に膨張していく。神官は溶岩が沸き立つがごとき音を闇の洞窟に響かせる。膨張する音がするたびうれしそうに瞳が上を向く。顎も一旦へこみながら前に迫り出しながら巨大化し、やがて膨張音とともに口が裂け終わった。人間時代には直接見えるはずのない己の顎が視界に入った。最後に闇の祝福を世に広める者にふさわしい青黒き角が二本額を割って伸びて行き、首が伸びて行った。神官は己の視線が高まるたびに己の視線だけでなく己の存在が神の領域へと高まって行く事を実感する。口腔は滅尽めつじんへと誘う闇の毒霧を放つたびに快感をともなっていた。己の瞳が赤く染まる。そして今、神の領域に達したことを感じ取った。首の伸びが止まったのだ。達成感のあまり増上慢ぞうじょうまんにあふれる声で顎を開け喉を鳴らす。神官はたった今人間としての生と決別の儀式を終えたのであった。


(ふふっ、私は神官にして神になったのか。なんという福音。しかし己の躰が完全体になるにはまだ何かが足りないようだな)


 すべての己の躯の変化が終わった。こうして暗黒竜タルウィは再び誕生した。


 変化を終えると、かつての少年が変化したときよりも一回り大きい暗黒竜がそこにはいた。


 ――ふむ、成功だな。彼も絶望感で一杯だったのだろう。


 ――どれ、闇に溶けてみよ


 暗黒竜王子が命じると、竜の姿は溶けた。


 闇はこれ以上の絶望を与えることはなかった。闇の中にいれば喜怒哀楽も何もない。それはすべての平和。すべての安息も約束され、もはやそこには不幸はなかった。魂はこの世界では生きない。死にもしない。永遠に存在し、あり続ける。そこにほのかな闇の光が降り注いでいた。


 「神官よ、そなたの求めていた平穏を得られたのがわかるか」


 闇にも光がある。暗黒の光は人々に安らぎを求めるのだ。


 神官は快感であった。これ以上自分が傷つくことも、傷つかれることもない。闇はまさに福音。


 「己の姿を見てみよ」


 そういうとアジ・ダハーカは空中で魔法陣を作り出し、鏡を出現させた。


 それがお前の心と求める姿を現出させたものだ。神官よ、絶望と発狂かな。それとも至福の絶頂かな?


 ほくそ笑みながら質問を投げかけるアジ・ダハーカ。


 「……至福でございまする」


 そう答えた。


 「たった今お前は死んだ。しかし、闇の者として再び生を受けたのだ。神官よ、今日から『タルウィ』と名乗るが良い」


 「この者はいかがいたしましょう」


 そこには痙攣けいれんしたまま恍惚状態のまま立っている元王子であった。


 「私がこの者を暗黒するまで封印するとしよう」


 「王よ、直々においでなさったのですか」


 今度はアンラ・マンユが魔法陣を描いた。王子の背中に痣が出来る。


 そのうえで、アジ・ダハーカが自らの鍵爪で血肉をえぐり、そのまま元王子の胸に突き刺した。


 血はあふれることなく、吸収されていく。やがてゆっくりと引き抜いた。


 「このものどもには利用価値がある。元大魔にして裏切り者のジャムジード王の王国を滅ぼし、このザッハーク王子を王としようではないか」


「父上、この者をわが獲物に?」


 暗黒竜王子が王に確認する。


 「何、そのためにタルウィを復活させたのではないか。お前とともに二匹で死者の国、ジャムジード王国を滅ぼすのだ。魔は生きてこそ価値があることを、死の国のものどもに教えてやるのだ。同時に、彼らの国民をも解放してやるのだ。死ぬことができぬという呪いからな」


 そう、魔は生きてこそ価値がある。


 「それに、王子に罪悪感を抱かせないためだ。ただし、今だけだがな。彼には三眼、三口、六眼の化身となったあとに死人の国に攻め入り、征服したうえで死人を魔軍に変えさせた上で終結させ、母国に攻め入るのだ。さすれば、我の天下。アフラ族はまたしてもこの地からも追放よ」


 「ザリチュよ、教育を頼むぞ」


 「はっ」


 王と王子に最敬礼する竜。


 「我々は自由。お前がミスラの教えに戻ることも許してやる。ただし、その仮初かりそめの姿でのみな……」


 すすり笑いが洞窟に響き渡る。


「新しき主よ、我は貴方にすべて命を委ねます」


「よくぞ言った。新しき大魔に祝福あれ!」


 そう言うとアンラ・マンユはタルウィに闇のしずくを頭に垂らした。


 新しきタルウィの誕生であった。

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