第四章 第一節 新たなる闇への渇望 ※
<古代ペルシャ。常に光の神と闇の神が戦う場>
人々は病に恐れ
――ザリチュよ、また友が光に倒されたのか? また友愛を求める日々はやり直しだな。
ふふっ笑う声。どことなく闇の洞窟に声が響いた。暗黒竜王子の声であった。闇に溶けていて姿は見えない。
――はっ、もちろんタルウィは生きております。私とともに。闇の煙が我の
この問いにザリチュも闇に溶けて闇の者となって返した。
――我はまた人間の本来の姿である美しき姿に変わる、肉が流れる変貌が見たいのでございまする。竜王子殿。
そう言いながらザリチュは洞窟で
――狂気と絶望は我らの
「戻っていたのか、マーサ」
ザリチュが言うや否や闇の洞窟の床からさらに濃い闇の渦が地面から噴き出し、マーサが姿を現した。
マーサが竜王子に謁見し、間を置いて発言した。
「竜王子様、提案がございます。今回の光の側の神の復興は脅威です。そこで、我も戦力として絶望した者を探すのみならず、我に力と祝福を与えいただけないでしょうか? もちろん新たなる『タルウィ』も探し出してみせます」
「ほお、そなた、狼からさらに強き闇の主へとなりたいと?」
「はい」
「よかろう。だが死の苦痛を乗り越え、さらなる新たな命になるのだぞ。いいのか?もうその仮初めの姿たる魔女の姿、すなわち人の姿は取れんぞ」
「覚悟の上です」
闇が新たに
「ふむ。ザリチュ……どう思う」
「我は人間のみならず闇が美しき姿に変わる、肉が流れる変貌も見たいのでございまする。それはまこと至福と
「くっくっくっくっくっくっくっ」
今度のザリチュは闇から現れ短く笑いをこらえながら答えた。
「ならば、マーサ、この鱗を受け取るがよい。そして狼の姿になった後に我がその鱗の力を引き出すことにする」
漆黒の鱗が鈍く輝く。
「ただ、命をも落とすかもしれぬぞ。覚悟はいいのか? 肉片になれば我が頂く」
「もうこの狼の姿を飽きたところでございます。もっと強き力でもって人間を恐怖に
「よく言った。マーサ」
そう言うといつも通り……全身に黒い獣毛が生え、肉が溶岩のごとく流れ、狼の姿に戻った……。この姿も最後となる。
アジ・ダハーカが自らの爪で腕を切り、肉を
「受け取るがいい。マーサ」
そういうと黒き血にまみれた黒き肉が載っている鱗を、暗黒竜王子たるアジ・ダハーカがマーサに手渡しする。黒き血にまみれた漆黒の鱗はさらに暗黒の度合いを深めていた。
鱗が渡るのを確認すると、暗黒の空間に三口、三頭、六眼がマーサ見据え、六つの腕と手が魔法陣をそれぞれ描いていく。最後に呪文を放った。
――眠りし闇と暗黒に目覚めを!
(これでかつては人を闇に陥れた側が今度はより強き闇へと変る。どんな姿となるのやら……)
ザリチュが希望を膨らまれながらもしかめっ面をする)
やはり狼に突然の変化が訪れた。目をむき破裂しそうな勢いで心臓が脈打ち、頭が締まるように痛い。いつもは傍目からみているが、いざ自分がとなるとやはり苦しい。
光景が暗黒の闇に包まれる。
(失敗か……? だがそれも本望。闇のものどもに食われ、闇の一部になるだけ)
死を予感したマーサはさまざまな回想が走馬灯のごとく目に浮かんだ。
◆◆◆◆
元々はただの農夫であった。夫と子はたくさん生まれた。だが飢饉と疫病が一家を襲い、さらに戦乱が子ども達を奪っていった。帰ってきたのは「戦死」の知らせだった。
さらに異国の軍隊が一家を
夫婦しかいなくなってしまった彼らは生き延びるため農業をなんでもこなした。だがマーサは過労で倒れてしまった。
そこへさらなる不幸が訪れた。夫がどんどん変わり果ててしまったのだ。どんどん記憶を失い、ありもしない妖精を見ただの、アフラのお告げが聞こえると喚きだしたのだ。あまりの絶望で気が狂ったのだ。
マーサは必死だった。体に負担のない気分を安定される眠り薬である
評判はよかった。マーサはやがて魔女として生業をたてることにした。占いや恋の相談にまで応じた。だがしかし、それは危険な行為であった。あらぬ噂がたちまち広がった。
――あそこのうちが呪いかかっているのは魔女が呪い殺したからだ。
――薬草を煎じるために人間を食い殺しているらしい
――闇のものどもを呼び寄せて疫病をはやらせばあいつの商売は上々じゃないか。闇と結託しているのよ。
――そうだ! 本当は疫病もあいつの仕業にちげいねえ。治せる薬を知っているのなら、病を広がせる薬もしっているはず!
やがて疫病と戦乱の成れの果てで集団狂気と化した村人はマーサ夫妻を襲った。マーサは裏口からかろうじて逃げたが深い傷を負った。夫は暴徒に殺され、死んだ。悲鳴を聞くが、家を振り向くことなく山へと逃げ込む。さらに山を登ると遠くから煙と火が見えた。火が放たれたのだった。
あてもなく焦点のあわぬ瞳をもった老婆は山奥の洞窟にいつの間にか居た。闇の中で死をと思っていたのだ。そこに闇の者がいた。
――すべてに絶望した者よ。そなたはその傷でいずれ死ぬ。薬草も役にたちまい。だが、絶望という薬を飲めば安楽になろうぞ。それだけでない、あやつらに鉄槌を下すこともできる。どうじゃ、逆にあやつらを殺戮したくはないか、魔女よ。そなたは魔女という時点で人と対立する存在。ならばふさわしいのは闇。
暗黒の竜が洞窟に居たのであった。ザリチュであった。
すべてを憎しんでいたマーサ。これ以上の狂気を味わいたくないため闇を、鱗を受け容れた。望む姿を思い描いていた。気が付けば狼になっていた。すぐさま山を降り、その晩、村人を全員喰いつくし、家をすべて破壊した。もちろん赤子もすべて喰らい尽くした。
それ以来ザリチュに従いながら自分と同じ苦しみを持つ人間に救いの手を差し伸べることにした。これこそが幸福なのだと。全てが虚無である闇にとろけさせる時が至福の時であった。
――闇の中で肉体をとろけさせ、安やぎを得ることによって死への誘いという狂気を抑えていたマーサ。その闇の世が危ない!
――ならば私がさらに強きものとなり、人間を殺し、喰らいつくすまで。この忌まわしい仮初めの魔女の姿なぞもういらぬ。破壊と闇こそが福音!
◆◆◆◆
そう決断したとたん、血が沸騰したかのような熱さで体中が熱くなり、
やがて全身から黒き霧が噴出し漆黒の空へと勢いよく昇っていく。手に持っていたはずの鱗は狼の掌に吸い込まれていった。
突如……
血や肉や骨は闇の煙で沸騰し、呻きの声をあげている。新たな命の誕生の歓喜の呻き。肉が流れ、脈打ちながら膨れていく。己の鎧でもあった毛皮が床に血とともに落ちていった。肉の塊となった身体の内側から新たに生まれた肉と骨と筋肉が膨れ、溶岩のごとく血肉と骨がゆっくりと溶け、胴体を変形すべく血肉が流れ出す。骨が禍々しくゆがみ、膨れるたびに全身から
背中にも変化が現れ、背びれのような突起が突き出ていった。背中から闇よりも黒き
マーサの頭部は狼の容貌を維持していた。だがその狼の姿もより強き姿へと変貌する。大蛇が長い舌をときおり
変化が終ったときは闇の主にふさわしい大蛇となった。大蛇のかん高い咆哮が
いつも傍から変化を見ていたがこれほどまでに自分を解放するとはなんたる快感。なんたる
暗黒竜王子が笑いをこらえた。
「気分はどうかな?」
「闇の生き物がさらに闇を深めるのは至福でございまする」
(
「今日からそなたはマーサではない。私が命名しよう。そなたは今日から『ヴィシャップ』と名乗るのだ。闇の大蛇という意味だ」
「ありがたき幸せ」
「そこでだ、今回この死の暗黒の大地ペルシャではなく、アフラ神の支配の及ばぬ北の大地にいってもらいたい」
「そこで思う存分殺戮できるわけじゃな」
狼大蛇がうれしそうに答える。
「そうだ。そなたの因縁の遊牧民族を抹殺し、闇の世とするのじゃ」
その言葉を聞いたとたん、大蛇が喜びを含む憤怒へと変っていき、全身を震わせた。
「そうだ。兄妹よ。今日からそなたはこのアジ・ダハーカの血肉を受け継いだ兄妹。そしてそなたの目を通して世を見ることができる。いわば化身でもあるのよ」
――もっともそなたの自我を保ったままで我がそなたの眼を使わせてもらうがな
ヴィシャップはダハーカの内なる声が聞こえた。化身体になった証である。
「くっくっくっくっくっくっくっ」
(なんと言う至福。なんという
ヴィシャップは笑い続けた。
「北の大地に行き、そこで魔の王となり闇に染めるのだ、ヴィシャップ」
今度は肉声でヴィシャップに伝えるダハーカ。
「ははっ」
その命に大蛇は嬉しそうに答えた。それは新たな惨劇の始まりであった。
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