第四章 第二節 北への侵略
闇は闇である限りどこへでも行ける。ヴィシャップはさっそく夕闇にアルボルズ山脈の洞窟で闇の中へとろけさせ、西のアララト山の洞窟に移動した。南側は相変わらず光が強き世界だった。だが、光の弱い北方はアフラの信仰もなく、人々の行き交いも巨大な山脈のせいでほとんどなかった。
アララト山の洞窟の奥深くで空間が揺らぎ、闇がゼリー状になりそこに狼の頭を頂くヴィシャップが姿を現した。ヴィシャップは運動さながらに手を握ったり開けたりした。
力が
洞窟で出て、巨体を蛇行しながら山を下るとそこは大草原であった。遊牧民が次々行き交う壮大な空間である。
――分っておるな。ここを惨劇の場にして、闇と絶望の大地にするのだ……ヴィシャップよ。
ヴィシャップにアジ・ダハーカの思念が頭に語りかけてくる。
――もちろんでございまする。
自己の目を通して
我が本当の闇かどうかを……!
――さっそく近隣の村を殲滅いたしましょう。狼の時よりも惨酷に、大量に。
――そなたの体は我が瞑想すればお前の目を通してお前の目の光景をみることができる。惨劇は我の糧となるよう期待しておるぞ。
(言うまでもない。復讐の時さ)
そういうと翼を広げ、下にある村に業火の炎を浴びせた。突然の襲撃に戸惑う村人達。
次に破滅に導く爪を裂いた。容易に鉄の剣が折れ、鎧を切り裂いた。横真っ二つに分かれる遊牧民の戦士。
次に右の指で魔法陣を描き、雷を浴びせた。炎がさらに広がり、焼け焦げた夫婦の姿が見えた。左で魔法陣を描くと氷の矢が次々村人を刺していく。
特攻していく騎馬兵を尾でなぎ倒し、落馬していく兵。瀕死の兵に大蛇の尾がからみつく。尾をからめ引き締めるとにぶい音が響きやがて兵士は動かなくなった。村が全滅し、残ったのは死体と燃えさかる廃屋だけであった。
次の村で同じことを繰り返した。次の村ではさらに牙の威力を試し、村人を突き刺した。流れ行く毒液。やはり炎を吐きすぎると飢餓感が襲った。さっそく食事をすませ、獲物を歯牙にかけ、血を堪能した。右の指で魔法陣を描き村人を石化させた。出来上がった石像は尾で叩き割った。
(つまらん。そうだ。いい事を思い付いたぞ。かつてのタルウィのように破滅と破壊だけをせず……ははっ。人間にはもっと深い絶望を味わせてやろう)
そう想うと飛翔し、さらに次の村を襲った。
襲ったあとに家々に炎を撒き散らした後、村長の村に行き、尾で村長の家を破壊し、そこにいた村長を握り締めてこう言い放った。
「先々の村のようになりたくなければ降伏せよ。命まではとらん。ただし、条件がある」
村長が握り締められたまま掌にあわててひざまつく。さらに懇願するようにかすれた声で言った。
「何でも従います!! 村人の者だけはお助けください」
ヴィシャップはほんの少し握る力を強めた。
「してその条件と……は?」
歪んだ笑みを浮かべながら答える暗黒の大蛇がそこにいた。
「それはな、全て力のある者に服従することと、全ての自由を認めること、そして魔のものどもの支配に甘んじることの三つじゃ。何、簡単じゃ。力こそ全てという世じゃ」
ヴィシャップはほんの少し握る力を弱めた。
「このようにな」
そう言うと大蛇は尾で支柱なぎ倒し、家を破壊した。壊れたことによって納戸に隠れている青年が見つかってしまった。それを左手でつかむと右手でつかんでいた村長をそっけなく投げた。鈍い音が床に響く。
「よく見ておるのじゃ、村長。これが力が全ての世じゃ」
(われとて闇空間そのものになる時のみ命は永遠に維持されるが、肉を得た姿でこの世に居る限り、それは永遠ではない。ならばここで人と交わり、我の腹を
舌の位置を変え、青年に紫の煙をかける。青年の身体はしびれたまま無抵抗な状態となり、床に倒れる。大蛇はさらに桃色の煙を吹きかけた。青年は
次に、爪で青年の服を器用に切り裂く。さらに暗黒の大蛇は手足の鍵爪を引っ込めた。その代わり、引っ込めた爪からは大量のゼリー状の油が生じた。
「大切な物を傷つけてはいかぬからの」
そう言うと、その油を指でそっと丁寧に青年の体を塗り上げた。次に大蛇は己の心を含む
(くくっ……ついでだ。己の
その後、大蛇は人間には思いもよらぬおぞましき行動に出た――!
やがて青年が発する人間の声とは思えぬ悲鳴が村中に響く。その光景を見ていた村長が胸を抑えながらながら倒れ、やがて動かぬ者となった。絶えられぬ光景であったのだ。大蛇は己が行っている作業を縦長の瞳孔を通して冷徹に青年を見つめている。だが大蛇も己の欲望に負け、知らず知らずに歪んだ三日月の笑みを……牙を覗かせながら浮かべはじめる。悦楽の波動を受けるたびに己の爪が元の長さに戻り始める。やがて大蛇の歓喜の声が村中に響き渡った。青年はその声を聞き、思わず狂気と絶望の叫びを吐いた。青年が出した狂気の絶望はすべて暗黒の大蛇が我が物とした。
(まだだ……まだ足りぬ。我が受けた絶望はこんなものではない――!)
大蛇はこれだけでは飽き足らず……
大蛇は無言で体を小刻みに震わせた後しばし余韻に浸る。長き沈黙の時が流れる。その沈黙も絶望の糧となった。己の体から流れ行く血は全く痛みを感じなかった。傷は修復され血が止まった。吐く息はどこか熱い。
(ふむ、僕の抗体が奴の躰に行き渡ったようだな)
己の躰は確かに完全体である事が証明された。それどころか完全体ともなると瞬時に己の体に新たな命を宿したことまで分かるように出来ていた。
(これは……
――ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………
闇が再び蠢く。あらゆる物を手に入れた事実に思わず「獲た」と言ったはずなのだが満足感に満ち溢れる乾いた喉声にしかならなかった。最後に……青年の絶望の味を確かめて食事は終わった。
事を終ると裸の青年を大事そうに大蛇が床に置いた。青年は大蛇の血を大量に浴びていた。毒の血を浴びた青年の体に異変が起こる。まず体中の幾筋もの赤黒い血管が浮かびあがった。血管の筋は四肢にひろがり、やがて全身に広がる。自我を失った身体がびくびく
やがて痙攣が突然止み、息絶えた。だが次の瞬間、目の瞳孔が縦長に変った目をかっと見開いた。だが、自我は無いようだ。
「お前の役目は終った。……にしても……くくく、なかなかであったぞ」
自らの濡れた唇を二つに割れた舌で舐めながら大蛇が述べた。
「すまぬ。言い忘れたの青年よ。実は我の血は人間にとって猛毒。我の血に少しでも触れるだけで普通の人間は死ぬのだ。だがお前のためにと思っての、お前を魔物とすることとした。我の油には人間には我の毒と同調して免疫が生まれ、魔物として変化するのじゃ。お前はたった今新たな命を得たのだ。そのままの姿で生き恥をかきながら生きるかはおぬしの選択にまかせる。何せ『自由』じゃからの。もっとも絶望が苦しいのなら、心までこの我の鱗で完全なる闇に染めてもよいぞ。お前はなんせこの子の父なのだからな……」
大蛇は己の鱗をさすりながら言った。
だが、青年は放心状態のまま火が放たれた村を出た。
(ふっ、そのまま野に生き、野垂れ死にを選ぶか? それも魔物にして人の心の選択。絶望よの。その絶望も我の糧とするか)
――くっくっくっくっ。見ているだけで糧となるわ。ヴィシャップよ。悦楽も味わせてもらったわ。分かっていると思うが、そなたはその国の王となりながら我に従うのじゃ。さらなる快楽と力を与えようぞ
――当然でございまする。大魔が集まるときはよろこんで行きまする。
(そうだ。ここの村人の事を忘れていた。奴らに宣言せねば)
「約束通りここの村人は保護する。ただし、奴隷としてな」
ヴィシャップの声に答えるかのように闇から魔族が現れた。
◆◆◆◆
これ以後、後にアルメニアと呼ばれる大地は魔の支配下に置かれた。ペルシャから大量に魔のものどもが押し寄せ人間を支配下に置き、人間を奴隷としたのだ。力こそ全て。力なきものは何されても服従することとなった。こうしてさらに人と魔との間に竜人や獣人も生まれ、魔となるものも増えた。
ヴィシャップは奴隷となった人間に宮殿を作らせた。闇の力で守らせた宮殿は強固であった。六角ある城にはそれぞれ魔法陣が描かれ、さらに全体に魔法陣が描かれた。
ヴィシャップは魔の希望の星と呼ばれ、その国の女王となった。今や光の国となったペルシャから逃れてきた魔が次々と移住し、混血した半魔ともいえる竜人や獣人、鳥人などが一大都市を形成した。
やがて子を産んだ。それは上半分が人間、下が暗黒の男の子の大蛇であった。「アジ・ラーフラ」と命名された。将来の王となる子であった。ヴィシャップは惜しみなく愛を注いだ。
正面から人間社会を攻めることが失敗した魔の奇策とは、内部から人間の血を薄め、魔に染め上げ、人口を増やすことであった。
半魔と純粋な魔の差別は「自由」の名のもとに絶対的に禁じたため、暗黒の都市は急激に拡大した。
ヴィシャップは宮殿のテラスに出て国民が集う中で右手を天に向かって印を結び左手を大地に向けて印を結び呪文を唱えた。するとヴィシャップの躰から闇の波動が起き周りの草木を闇色に染めた。完全体に……両性具有になった者だけが許される印であり……闇の波動はその証拠でもあった。印の意味は「解体して再統合せよ」という意思表示である。己の躰も世界をも一旦解体して再統合した者だけが示す資格のある印である。もしただの魔族や人間がこの印を結び呪文を唱えると体が四散してしまうのだ。
「これより、この地は魔族の地となる!」
国民はこの声と姿に畏怖し同時に
(まさかこの我がサバトの主催者側になるとは。それも国単位のサバトの主催者側。元魔女のこの私がこんな光景を目にするとは……二度も命を懸けて完全体の魔族に生まれ変わった甲斐があったというもの)
ヴィシャップは印を解き……喝采の声を背後に宮殿に戻った。
(人間を救うために一度だけ薬草を学びにサバトに参加したことが……我の手で人間族の国を亡ぼすきっかけを作るとは……なんという歴史の皮肉。そういえばあの時契りを交わした
そう、サバトとは狂乱の宴の場でもあり半魔が生まれる原因の場でもあった。ということはサバトを国全体の規模に拡大すれば……魔の国になれるではないかというヴィシャップの起死回生策だったのだ。
と、その時ヴィシャップの右手が勝手に動き胸に当てられた。
――分かっておるな。そなたは我の
――わかっておりまする、ダハーカ様
その時闇から生じた者が現れた。漆黒の体に蝙蝠の翼の夢魔。間違いない。魔女時代の
「監視役のムーシュよ。お久しぶりね。大丈夫。監視だけなんてむごい事はしないわ。貴方には契約通りもっともっと薬草の事教えてあげる。毒草の事もね。それに……楽しい事いっぱい出来そうじゃない?」
その顔は強欲に満ちていた。
「私を妃にしない?」
それは私生活をも監視されるという意味だった。
「断る。それにお前の子ではない子を産んだ」
我が子アジ・ラーフラを守るための精いっぱいの抵抗だった。それに「人間の血を薄め魔族を増やす」という己の謀略にも反する。
「いいわ。その代わり快楽の場は作らせて?」
「承知」
女王はなんと深々と監視役に頭を下げた。
こうしてアルメニアは
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