さらば獣め安らかにくたばり給え

λμ

営倉に暮らす英雄

 寒く、狭く、暗く、自分でつくった悪臭が漂う部屋。手の届かない高さにある硝子の入っていない格子窓と、硬く冷たい扉についた小さな窓が、貴重な光源となっている。


 外では補充されたばかりの兵士たちが訓練と称した無意味な長距離走にあえぎ、扉の向こうでは営倉の監視という休暇をもらった兵士がくだらない会話を続けている。


 上官侮辱罪ならびに抗命罪で営倉に放り込まれて早二週間。

 ヘイズルは、窓の明かりと会話の内容を頼りに日付と時刻を把握し、今日もトレーニングに励んでいた。食事は日に一度、歯の欠けそうなパンに、泥水にくわえて食事当番の唾が混じっていそうなスープが一皿、窓から迷い込んでくる虫や鼠もつく。美味くはない。万一、腹でも下せば本国の病院に移送されるかもしれないが、終戦まで帰るつもりはなかった。


 躰を動かせば腹は減る。

 ただそれだけの話だった。


 営倉で過ごす時間は最長で二週間であると軍規に定められている。通常は途中で体調を崩して三日程度で外に出る。無駄に耐えても得はない。盗みや脱営なら軍法会議へ進むが、ヘイズルの起こした『ちょっとした』騒動は、後の作戦成功に繋がっている。これまでの功績を考慮すれば、すでに解放されていてもおかしくはなかった。


 だったら、俺はなぜ、まだここに閉じ込められているのだろうか。


 ヘイズルは自問しながら背中を壁に押し付ける。

 日が高くなるのを眺めつつ、脳裏で演習を繰り返す。外から聞こえる補充兵の声も助けとなった。何十回も空想の泥中を這いずり、塹壕を越え、突撃をしかける瞬間を待ち、そして――鉄の扉が叩かれた。食事の時間には少し早い。


「ヘイズル・パートリッジヴィル曹長。出てください」


 奇妙な気配だった。基地の人間には嫌われていないと思っていたが、妙に態度がよそよそしい。外に出るにしても、即時の現場復帰か、てっきり馬車や兵員輸送用のトラックに乗せられるものだと思いきや、連行する兵士の足は司令部に向かった。


「……こっちで合ってるのか?」


 素朴な問いに、兵士が顔だけを振り向ける。


「合ってますよ。あなたを呼ぶように言われたんです」

「誰に。基地司令官殿か?」


 ヘイズルの声音には若干の嘲りが含まれていた。冗談あるいは下士官の間でのみ通用する軽口の域に留まる嘲りだ。

 兵士は頬を僅かに緩め、前を向いた。


「違います。青い制服でしたし、女でした」

「女」


 予想だにしない言葉に、ヘイズルは営倉に入る前、故郷に宛てて書いた手紙を思い出し、ごく微かに口元を緩め、首を緩く左右に振った。


「軍内部に俺のファンクラブでもできたかな」

「あなたが言うと冗談に聞こえないから困ります」


 兵士は声をやわらげ、会議室と銘打たれた扉の前で横に退いた。兵士が二人が小銃を抱えて入口を固めていた。最新式のボルトアクションライフルとみえるが、室内で振り回すには大きすぎる。こういうところが戦争を長引かせているのだと、ヘイズルは胸の内で歯噛みする。


「ヘイズル・パートリッジヴィル。参りました」


 入れ、の一言を待たずに部屋に入った。

 青い士官服の女は、官帽を小脇に抱え、つまらなそうな顔で窓から基地内の兵士を眺めていた。狐に似た目だ。軍人にあるまじき腰まで垂れた黒く艶やかな髪。背は大きくなく、厚ぼったい士官服でも隠しきれない女性らしいライン。現場に出張る武官には見えない。


 女はやおらに振り向くと、長机の角に立ち、傍の椅子を手で差し示した。つい先ほどまで座っていたであろう席には紙のファイルが置かれ、どこから持ち込んだのか不明な銀のティーポットと、ソーサーつきのカップが二客。


「よく来てくれたヘイズルくん」


 高くなく、低くもなく、だが女にしては底冷えのする声音だった。差し出された手の細い指先は、泥や土どころかインクの汚れすらついていない。

 ヘイズルは一度、自分の手のひらに目を落とし、握り返すのを諦め、両手を指先まで伸ばして太ももの横に揃えた。

 女は薄い唇をニマリと歪め、手を引っ込めた。


「呼び出す前にシャワーを浴びてもらうべきだったか」

「砂でも良かったんですが」

「砂?」

「ひとまず臭いは消えます。鼻をつままなくていいでしょう」

「君は猫か何かか? 大丈夫だ。君のような英雄の男臭さはむしろ好ましい――」


 女は自分の言葉に吹き出し、顔の前で片手を振った。


「すまん。臭うわけじゃないんだが、男臭いと言うには若すぎるし、優男が過ぎるな」


 苦笑しながら長机の角に腰を下ろすと、右手で頬杖をつき、空いた手の人差し指と中指を揃えて椅子を指差した。


「――いえ、このままで」


 営倉送りは初めてだった。勧められるままに座るのが兵士として正しいのか、出てきたばかりの下士官として着席を固辞するのが反省をみせたことになるのか、正解が分からなかった。


 そもそも、女は何者なのか。襟に縫いつけられた階級章は佐官を示す捻じり剣。三日月付きだから中佐ちゅうさだ。


 ヘイズルは思わず瞬き、女の顔を見た。

 何が『若すぎる』だ。年上には違いないが、佐官クラスの平均に照らせば小娘と呼ばれているに違いない。戦勝は近いと聞いていたのに営倉にいた二週間で軍部に何があった。


「……ああ、この階級章か。そう気にしないでくれていい。見慣れない軍服だろう? 戦技研という――まあ、あまり表立っては動かない部門でね。階級章も給料の区分を示す意味合いが強い。君が本来つけているべき襟章とは、根本的に性質が違うよ」


 中佐は薄く笑い、角の椅子に腰をかけ、静かにファイルを開いた。白黒の写真が数枚に、残りはヘイズルの経歴書を一番上にした紙の束だ。


「――さて、呼び出した理由を話す前に、いくつか確認しておきたい話がある。もし座るのに抵抗がなければそこに腰掛けて――」


 ティーポットを手に取り、カップに紅茶を注いだ。土と汚物の悪臭がつきまとう営倉にいたからか、やけに香り高く思われた。


「一息ついてもらいたい。これは私から君への敬意だよ。拒否しないでもらえると嬉しい」

「……そこまで仰っていただけるのなら」


 あとからあとから湧いてくる唾液に喉を動かさないよう気を払いながら、ヘイズルは久方ぶりの柔らかい椅子に腰掛け、失礼しますと添えて紅茶を口に含んだ。これまでの人生で死ぬような思いは何度もしたし、何度も生き返ったような気分になってきたものだが、その味は生の実感よりもむしろ遠い昔となった市井を思い出させた。


 中佐は高くもなく低くもなく鼻を鳴らし、自身のカップにも茶を注ぎ、資料に綴られた文章を指でなぞりながら尋ねた。


「ヘイズルくん。君はなぜ陸軍に志願した?」

「……なぜ、と仰られますと?」

「もう昔の話になるが、私は君の資料にたどり着くまでに何百人分もの資料にあたる必要があったんだ。我が軍内で優秀と目される兵士たちの資料をね。最初のうちはいいのだが、次第に紙に水分を奪われてうまく捲れなくなくなる。そういうときは、こう――」


 中佐は舌先で左手の中指の先を湿らせた。


「これを繰り返していると、指を舐めたときに、直前に触れていた資料の人物の味がわかるようになってくる」


 冗談にしては異様な気配を帯びていた。

 中佐は手元の資料に触れ、もう一度、指先を舐めた。


「手が止まったよ。見直して、我が目を疑った。ヘイズルくん。ヘイズル・パートリッジヴィルくん。君は、あの、パートリッジヴィル家の長男だそうじゃないか」


 ヘイズルの家――パートリッジヴィル家は、イェール連邦内では比較的に長い歴史をもつとされる、俗に名門と呼ばれる家柄である。

 ――もっとも、積極的に政治に関わるような貴族階級ではなく、また軍人家系でもなく、長い歴史のほとんどを、ひたむきに果樹園と農場の維持に費やしてきた家だ。


「何も軍人になることはない。家を継げばよかったはずだ。開戦からこっち、領地が脅かされたわけでもない。軍に入るにしても士官学校を選べた。何がヘイズルくんを志願兵にした?」

「……面接でも同じことを尋ねられました。理由は色々ありますが――」

「手短に」中佐は吐いた息を両手で挟むような仕草をした。「頼むよ」


 ヘイズルは鼻で息を吸い、短く吐き出すとともに一息に言った。


「とにかく早く戦争を終わらせなくてはならないと思ったからです」

「……短くしてもらいすぎたな。どういうことか分かりかねる」

「士官学校は最短で修了しても三年かかります。それから戦場に移り、兵を操り――何年かかるか想像もつきません。しかも当時の私の年齢では一年待たなくてはなりませんでした。その点、志願兵であれば一月もかからず戦勝に貢献できると、そう思ったからです」

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