死者の息吹

 ――なんたる浪費だろうか。

 基地という狭い敷地に、士官専用の浴室を用意するとは。

 ましてや一列に並ぶ雨水利用の冷たいシャワーではなく、装飾こそないが外から持ち込まれたとしか思えない立派な浴槽に、湯が張られているとは。


 これほどの贅沢が本当に必要なのだろうか、とヘイズルは顔を洗いながら思う。温かく澄んだ湯が肌に染み入るようだった。遠く離れた我が家とほとんど変わりのないひととき。


 弟は、ホープは元気にしているだろうか。

 少年らしく薄っすらと薔薇色に染まった頬。柔らかな金毛に青い瞳。髪色も瞳の色も違うのに兄と慕ってくれていたホープ。顔を思い出したのは一年ぶりか――いや、志願入隊したときにはすでに忘れていたかもしれない。


 大きくなっているんだろうな……。

 六歳の少年にとって、三年という月日は、長く、大きい。

 いつか再会する日が来たとして、一目で兄と気づいてくれるだろうか。

 ヘイズルは緩んだ口元を引き締め、浴槽の縁に手をついた。中佐の、あの女のせいだ。思い出したくなかった。色鮮やかな記憶が戦場の兵士を壊す。故郷を語るとき、兵士は戦場に絶望を見る。一度、二度と積み重なると、いつしか兵士は救いを求め塹壕から顔を突き出す。


 俺には、死んでいる暇などない。

 湯船に広がる波紋をひとしきり見つめ、立ち上がると、ヘイズルは真新しいタオルを顔にあてながら浴室を出た。


「……何をなさっているんです?」


 中佐がいた。備え付けのテーブルに銃と軍服とを並べ、椅子の上で足を組み、品定めをするような目をしてヘイズルのつま先から天辺まで見回す。


「装備を届けにきたんだよ。それと、英雄の裸体を拝見させてもらおうと思ってね。恥ずかしながら、私も君のファンなんだ。眼福だよ」

「……いい趣味とは思えませんね」

「趣味に良いも悪いもない。男が女の乳房を見たがるように、女は男の筋や骨を見たがるものだよ」


 中佐はチロリと舌なめずりし、椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「――さて。これが君の装備一式だ。ヘイズルくんのような英雄を最低、最悪の戦場に送り込むのは私も心が痛むのでね。本来、軍服の改造は認められていないが、ヘイズルくんのために心を込めて再現させてもらった。どういう意図の改造かは知らんが――たしかめてくれ」

「失礼します」


 ヘイズルは視線を肌に感じながら机の前に立ち、装備を見下ろす。

 いつからかそうしていたように肘や膝に革を当てた軍服。革手袋は平時に用いる浅手のものと、有刺鉄線の除去などに用いる厚手の二つ。薄い鉄板を仕込んだ軍靴。


「……当て革は地べたに寝転んで匍匐で進むためです。中敷きは踏み抜き防止。戦地では個人ごとに対策をしていましたが、最初からそうあるべきだと思っています」

「なるほど。そのように報告しておこう」


 中佐は万年筆のキャップを外し、革表紙の手帳にさらさらと書きつけた。


「その他の装備はいずれも君のために最新のモデルを用意しておいた。ペンチやらドライバーやらといった工具類もね」

「これは? 拳銃嚢ホルスターですか?」


 ヘイズルは木でできたそれを指で叩いた。中佐が小さく頷き、自慢げな笑みを浮かべる。


「そうだ。出してみてくれ。そいつは凄いぞ」


 言われるままに取り出した拳銃は、奇妙な形状をしていた。兵士の間で噂になっていた自動式拳銃という奴だろうか。用心金トリガーガードの前に箱型の弾倉を備え、グリップは箒の柄に似ている。握ってみると、やや細い感はあるが、小振りなヘイズルの手によく馴染んだ。


「それは君の戦果報告を見て私が選定したんだ。君の射撃能力は目を瞠るものがあるから、それなら弾速の早い銃をと思ってね。装弾数は十発。そこの挿弾子クリップで給弾する」


 言われて見れば、鈍色のクリップに挟まれる弾丸は、ライフル弾を小型にしたようなボトルネックをもっていた。火薬量が多い証だ。


「反動が強くなるのでは?」

「もちろんだ。君の腕力なら大丈夫だとは思うが、その木製ホルスターをストックの代わりにできるよう設計されている。有効射程は最大で約二百メートルで――」

「小型のライフルのようなものですか」

「そう! まさにそれだ! 塹壕内では拳銃として使い、身を乗り出せばライフルだ!」

「アイデアは良いですね。ですが、どうせなら開発中と噂の手で持ち運べる機関銃や、ボルト操作のいらないライフルが欲しかった」


 テーブルの隅に、騎兵用に短縮されたライフルと、見慣れた銃剣が、揃えて置かれていた。


「ハハハ! よく言う! 君は一分に四十発ちかくも撃つと記録にあったぞ? 自動排莢機構なぞいらんだろう! ――まあ、正直に言えば開発が間に合わなかっただけだがね。これは君が戦争の経過を早めたせいだ。おかげで私は国中の銃砲店を見て回るはめになったよ」


 中佐はペンを走らせつつ、ヘイズルの顔色を窺うように微笑んだ。冗談のつもりだろう。

 ヘイズルは苦笑しながら答える。


「それなら安心です。官給品よりも信用できる」

「おっと。君はその手の冗談もいうのか」

「少しだけ。育ちが悪いものですから」


 中佐は口の中で笑った。


「やるな。どうだね? 装備に不足はあるか?」

「いくつか。自分の拳銃はどこにいきましたか?」

「ヘイズルくんの? というと?」

回転式拳銃リボルバーがあったはずです。あれは官給品を私物として――」

「新型の拳銃は不満か?」

「いえ、量販店で買える品に不満はありません。ですが、サブに持つならあれがいい」

「……そうか」


 中佐は渋々、背中に手を回し、ブラックメタルのリボルバーを出した。中折式のダブルアクション。自動排莢機構つき。古いモデルだが、慣れ親しんだ一丁だ。


「官給品は信用できないと言ったろう。いらないならもらおうと思っていたのに」

「何度こいつに助けられたからわかりませんからね。差し上げられません」

「そんなにそれがいいか? 現行モデルとの弾の互換性はないぞ?」

「新型の方が融通が利かなそうです。保険にするなら数だけは出てるこちらが有利です」


 にべもないヘイズルに、中佐は視線を下げて言った。


「ヘイズルくんのとは似ても似つかないと思うんだが」


 品のない冗談に少々、意表をつかれたが、それならばと銃を受け取りつつ答えた。


「当然でしょう。自分は六連発もできません」

「――フッ、フハハ! フハハハッ!」


 その澄ました顔からは想像もできない下卑た笑い声を立て、中佐は言った。


「そうか! 六連発は無理か! なかなか面白いことを言うな、ヘイズルくん!」

「ついでながらお尋ねしても?」

「なんだね。なんでも聞いてくれ」

「こいつも中佐が街で買ってこられたんですか?」


 ヘイズルの指は、とうてい官給品とは思えない、暴力的な紫色をした下着を差していた。


「フハハハ! そうだ! こちらに来る前に買い付けてきた! 本当だぞ!」


 冗談じゃないのか……とヘイズルは少し引いた。

 中佐は笑いすぎて目尻に溜まった涙を指で拭いつつ、実に愉しげに言った。


「さあ、ヘイズルくん! 早く装備を身につけてくれ給え! 忙しくなるぞ! すぐにトラックに乗って、次は飛行機だ! 彼の地は遠いからな!」

「飛行機……乗るのは初めてです。――その前に食事を頂けますか? このところ虫と鼠くらいしかまともに食べていないのです」

「フハハハッ! もう冗談はいい! だがせっかくだ! ヘイズルくんのセンスに免じて缶詰を用意してやろう! トラックの荷台や空の上で好きなだけ貪るといい! フハハ!」


 中佐は手帳に何事か書きつけ、背を向けた。


「虫と鼠……ハハハ! 虫と鼠か!」


 そう繰り返しながら出ていく背中を見送り、ヘイズルは紫の下着を手に呟いた。


「……冗談じゃないんだがな……」


 トラックの荷台ならまだしも、空の上など、本当に冗談ではない。

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