前線基地

 二対の翼を持った鳥――そういえば聞こえはいいが、実態はほとんど風に巻かれる蛾のようだった。空から地上の景色を眺める余裕はなく、缶詰など開ける気にもならない。前線から遠く離れた基地に降ろされ、足回りも貧弱なトラックに揺さぶられ、道なき道を前線基地へと向かい、ついに缶詰に手をつけたとき、そこは地獄のような有様だった。


 敵国がつくったものを流用し、無骨な形に作り変えた古い砦。歩けば土とも埃ともつかない粉が舞う空間で、極少数の兵士たちが覇気のない顔をして延々と空を眺めている。充満する怠惰な空気。遠くに感じる邪な気配。連絡員と落ち合う場所も分からぬまま基地司令官と簡素なやりとりを交わし、基地内の兵士にガルディアの様子を尋ねながら彷徨う。


 聞こえてくるのは「連中はイカれてる」の疲れた声だけ。前哨基地への補給は、ほとんど死刑宣告も同じととらえられていた。想像以上に劣悪な状況だ。いるだけで気力を吸い取られるような感覚があり、ヘイズルは休める場所を探して下士官用の食堂に入った。


 そこに、彼女はいた。

 赤い短髪に、幼さの残る美しい顔立ち。都なら数歩で若い男に声をかけられそうな人目を惹きつける雰囲気――と、そのすべてを台無しにする昏さ覗く紫の瞳。立ち昇る気配は近寄るなと言わんばかりで殺気すら纏う。くわえて、不味そうを通り越し味を無視して匙を運ぶ姿。若く勇敢な青年兵士が声をかけられないかと遠巻きに見ているが、老兵は見向きもしない。

 連絡員は、そういう女だった。


「……君が連絡員か?」


 女は気だるげに顎をあげ、ヘイズルに気付くと、すぐさま席を立ち背筋を伸ばした。


「あなたが、ヘイズル・パートリッジヴィル曹長ですか」

「……分からん。軍曹かもしれん」


 冗談のつもりだった。女はパッと顔を明るくし美しい敬礼をする。


「はじめまして、ミチカ・ボーレットです。今日という日を心待ちにしておりました」

「……デカいな」


 ヘイズルの体格は平均よりやや大きく、女と目線が揃うのは初めてだった。

 ミチカは一瞬だけ眉をしかめ、ごく微量の笑みを浮かべて言った。


「デカいというのは、胸のことでしょうか。それとも背の高さのことでしょうか」


 なるほど言われて見てみれば、オーバーサイズ気味の野戦服は胸周りだけパツパツになっている。男女比が圧倒的に男に偏る前線基地では気苦労も多かろうが――


「俺が言ったのは背のことだ」

「――ですか。初対面ではっきりそう言われると、傷つきますね」


 口調は軽いが声調は重い。ヘイズルは眉間に小さな皺を刻んだ。


「それはデカいと言われたからか」

「もちろんです、曹長。謝罪か弁明を要求します。私は泣くほど傷つきましたよ」


 試されているのだろうか、とヘイズルは双眸に力を込める。


「傷ついたというなら訂正しよう。背だけでなく胸もデカい」

「――好みですか?」


 ミチカの表情に挑戦的な気配はない。たとえるなら、都の市場で会計待ちをしているときにする雑談のような口調だ。気が合えば会計の後にカフェに行く。そんな話し方。町娘が相手なら気まぐれと暇つぶしに付き合ってもいいが、ここは違う。


「背の高さは好ましい。だが胸のデカさは走るのに邪魔そうに思える。どういうつもりでその質問をしたのか知らんが、俺は兵士に性別はないと考えている」

「兵士としての好みを聞いたんですよ」


 ミチカの返答に、釘を刺したつもりだったヘイズルは逆に感心する。あの食えない中佐が連絡員に選んだだけはある。


「しかし、驚きました。曹長は想像していたよりも、ずっとお若く見えます」

「……自分では年相応だと思っているよ、軍曹。かけてくれ」


 正面に腰掛け、手に持っていた缶詰を置き、安っぽいフォークを突っ込んだ。


「ヘイズル・パートリッジヴィルだ。ヘイズルでも曹長でも好きに呼んでくれていい」

「それなら!」


 ミチカは少し声を高くし、喉をコクンと鳴らした。


「ぜひ、ヘイズルとお呼びさせていただいてもよろしいでしょうか」

「――ああ。好きにしてくれ」


 内心、少しまずいと思った。正気を疑われるのも頷ける。同じ下士官同士で上官から言われたからとはいえ、名を呼ぶことに躊躇がない。会話の距離感を測り損ねるのは違和への一歩であり、重なれば狂気の片鱗となる。


「……君のことは何と呼べばいい?」

「はい。友人はミチカ、同期はボーレット――」


 ミチカはぐりんと首を振り、遠巻きに二人を見つめる兵士に睨みをきかせて続けた。


「ここの連中はクリメーターと。――地獄に帰れとほざく上官様は軍曹と呼びます」


 聞かずとも分かる異常に強い上官への敵愾心。置かれた境遇から理解もできるが――


「ひとまず俺は、軍曹と呼ばさせてもらおう」


 いずれ始末する可能性がある以上、いますぐに馴れ合う気はない。

 ミチカはあからさまに不貞腐れたように唇を尖らせた。だが、すぐに表情をあらためる。


「中佐殿から、お話は伺っています。私を本国へ返してくれるとか」


 どういう説明を受けているのか、ミチカの昏い瞳に輝きが戻りつつあった。色だけを見れば町娘のそれ以上に明るい。


 ヘイズルは持たされたファイルを開き、何度となく見たミチカの資料を出す。

 ミチカ・ボーレット。二一一連隊、第二小隊長にして第二分隊長でもある。階級は軍曹(みなし曹長)。立ち位置としてはヘイズルとそう大きく変わらない――が。


「軍曹。どう聞いているのか知らないが、俺は君を連れ帰るために来たのではない」

「――やっぱり。怪しいとは思っていたんです。どうせまた無理難題を言われるだろうと」


 意外にもミチカは冷静だった。


「うん。無理難題かもしれん。だが帰れるチャンスでもある」


 ヘイズルは素早く視線を滑らす。気づいた兵士の幾人かが目を逸した。


「……場所を移しますか?」

「どこかいい場所があるのか?」

「この世にいい場所なんてありません。あるとしたら土の下くらいです」

「……では、せめて人のいない場所に行こう」


 頷き、ミチカは戦闘糧食の乗ったトレイを手に席を立った。

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