挑発的な囚人

「またか」


 うつらうつらとしている目に、綺羅びやかだが細部の怪しげな居室の風景が映った。ちょうど一日前、肉にしゃぶりつくホープの悪夢を見たときよりも朧気だ。視野の中心だけはしゃんとした輪郭を備え、焦点を外せば陽炎のように揺らめく。

 とてとてと駆けてくる子どもの足音も、厚い水の膜に包まれている。


「お兄様」


 瀟洒なシャツを着た少年が陽炎の奥からやってきて、はっきりとした姿に変わる。

 灰色の肌に、ぶよぶよと膨れた奇形。継父の書斎に隠されていたホルマリン漬けの臓器サンプルに似ていた。世話になっている医者からの頼み物だと言っていた。真実は知らない。知りたくもない。医者の手に渡っていることを願う。


「お兄様?」


 灰色の肉塊が折れ曲がった。中央に、左右の高さを間違えた点がついている。視野の端では金色の髪の毛らしき影が揺れている。


「……なんだ? ホープ」


 答える自分の声までも、水底で喋るのも同じだった。

 ぐにゃり、ぐにゃり、と肉の塊がリズムを取りながら左右に揺れた。そのたびに視野の隅で金髪が揺れる。目を向ければまた変貌する。俺は弟をこんな風に見ていたのかと思う。


「ホープ?」


 肉塊が言った。


「誰ェ、それェ? 違うよォ?」


 そうか、違うか。安堵というより、諦めの息が出た。

 声が鮮明になっていく。力任せに高くした、耳に障る紛い物の声。


「ボクはね、ホープ君じゃないよ?」


 知ってるよ。


「――フロキ伍長」


 綺羅びやかな光景が一瞬の内に腐り落ち、血と肉と糞尿の饐えた臭いが鼻腔を刺した。冷たい石の穴蔵。燭台に灯された蝋燭の明かりが、眼前に迫る男の顔に陰影をかける。鼻頭をかすめるほど顔を寄せ、フロキが嬉しそうに舌なめずりした。


「やーっと、起きた!」


 目を見開き、叫ぶように言い、勢いよく立ち上がった。バレリーナがしばしばそうするように両腕を天高く上げ、翼を模して下ろした。

 その仕草を完全に無視し、ヘイズルは躰を揺すった。両足に鋭い痛みが走った。腕も後ろ手に縛られている。残念ながらボディチェックも行われたとみえ、野戦服の下に慣れ親しんだ硬い感触がなかった。


「……なーんか、腹立つなあ」


 低い、少しは人間らしくなった声が降ってきた。構わずヘイズルは首を巡らす。広さは禁錮室二部屋分。奪われた拳銃はフロキのソウドオフとともに黴の生えたテーブルに投げ出されている。悪臭の根源は部屋の隅に置かれた蝿の群がる木桶、床に転がる鉄器具は古い時代の拷問具だろうか。壁の鉄鎖には血まみれの躰が下がる。男だ。ミチカではない。ホッとした。


「伍長、ここはどこだ?」


 平然と尋ねた。フロキの細くした眉がピクピクと痙攣する。


「余裕ぶったって無駄だよ。ボクには、ヘイズル――さまが怯えているのが分かるんだ」

「こんな時でも敬称を外せないのか? ミチカの言うとおり、伍長の卑屈は不治の病だな」

「うるさぁい!」


 癇癪を起こした男の声が鼓膜を叩いた。


「うるさいのはお前の声だ、伍長。ここはどこかと聞いている。答えろ」

「ああ!? ここ!? ここは――マダム・バートリの、飼育小屋さ!」


 さあ絶望しろ言わんばかりの態度だった。自身が衛生兵ゆえに脅し文句になると踏んだのだろうが、突撃兵として過ごしてきたヘイズルには届かない。


「そうか。軍曹はどこにやった?」

「軍曹ぅ? どの軍曹のことさ! はっきり言ってくれないと分からないね!」


 あくまで居丈高であろうとするフロキ。付け焼き刃の醜い交渉術だ。どの軍曹か?


「ミチカ・ボーレット……軍曹だ」


 名を言うとき、少し舌が引っかかるのを感じた。

 それを動揺と取ったのか、フロキは畳み掛けるように言った。


「ハハハ! 残念! マダム・バートリのところさ! それはもう酷い目に遭わされてるるかもしれないね! あの綺麗な顔もグッチャグチャにされてさ! ハハハ! いい気味だ!」


 ああ、それが、お前の歪みの根源か。とヘイズルは大きく頷き、反響を続ける笑い声に対して、ホープに接する時の声色を思い出しながら男を演じた。


「よかった。ミチカが無事なようで安心したよ」

「ハハハハ――は?」


 間抜けにもぽっかり開いた口に、


「自分でやる勇気がないから人に渡した」


 ヘイズルは嘲りを放り込んだ。


「吸血姫マダム・バートリ。その名前、この拷問部屋、大方『そういう』趣味に傾倒しているんだろうが、お前に拷問を頼むような度胸はない。『かもしれない』と言ったな。卑屈なお前は身の程を知っているんだ。しょうもない趣味に興じるお前と違い、連隊の花形、突撃分隊の隊長ミチカ・ボーレットがそんな目に遭わされるはずがないと」

「……~~~~~~ッ、うるさぁい!」


 フロキが血が滲みそうなほど強く両手を握り固めて叫んだ。投げた挑発が深々と刺さったらしい。少し気が晴れた。ヘイズルの腹の底で、ムラムラと殺意が膨れ上がっていく。


 ――そろそろ来るな。


 思うが早いか、フロキは両手でヘイズルの髪を掴み、瞳を覗き込むように顔を寄せた。


「ミチカミチカってうるさいなあ! どいつもこいつもさあ! 後ろに控えるボクの方が偉いんだ! ボクがいなきゃミチカだって動けないはずだ! なのになんで!」


 もちろん、そうだろう。背中を預けられるからこそ前だけを見ていられる。だが、いま投げるべき言葉は違う。


「『はず』だと? よく分かってるじゃないか。ミチカはお前なぞいなくても前進する」

「……そうかい。そうかもね」


 重く、昏い声を吐き、フロキが顔を伏せた。気配が変わる。首を上げたときには、嘘っぽい華やかさを備え、恍惚とした笑みを浮かべていた。


「ヘイズル、さま? あなたにボクの凄さを、大事さをお教えして差し上げますよ」


 言って、フロキは正面から抱きつくように躰を寄せた。ヘイズルの腹が殺意に満ちた。


 ――いいぞ。さあ来い。近づけ。その喉笛を噛み切ってやる。

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