とっくの昔に死んでいる

 真っ赤なワンピース風野戦服に包まれた腕が、ヘイズルの両脇を潜る。ここだ、とへイズルは牙を剥いた。その浅黒い首に歯を――立てるはずが。


「――ウゥアッ、ァッ、ガッアァァァ!?」


 穴だらけになった両足にフロキの指が食い込み、痛みに身が強張った。だが、喉に絶叫を迸らせたのは痛苦ではなかった。


 途方も無い虚脱感だ。


 フロキの手が弄る傷口からヘイズルの全てが流れ出ていく。今にも解き放たれようとしていた殺意が緩み、熱が散り、耳元に感じるフロキの吐息にさえ凍えた。温かな記憶が網膜の奥に明滅し、油に浮く泡のように粘っこく砕け散った。現れては砕け、現れては砕け、


 ――ああ、これは、俺は、死ぬのか?


 癒やしとは、つまり、死ぬことなのか。

 我が意に反し、涙が零れた。息とも声とつかぬ音が肺から絞り出された。


「さあ、天国に連れて行ってあげるよ。気持ちいいよ」


 フロキの声が耳穴から脳に侵入し、頭蓋の中で跳ね回りながら浸透していく。凍える躰を少しでも温めようと、ヘイズルはフロキの首筋に顎をかけて、引き寄せようとした。

 しかし、無情にも、希少な体温はするりと離れた。


「あ、ああ、あ……」


 肺を膨らませられるだけの酸素を求めて口を開き、暗闇に覆われた視界のなかで、ヘイズルはフロキの体温を探して躰を前後に揺すった。足の痛みは消えていた。救いが欲しかった。


「さあ、いい子だ。ほら、ボクの、この指を〈しゃぶって〉?」


 フロキの手が、ヘイズルに口を開かせた。右手の親指をピンと伸ばし、前歯の下を一撫でして口の奥へと挿入する。


「さあ、吸うんだ」


 全身に広がっていくフロキの声。舌を指に絡め、唇で挟んだ。ぎゅうっっっと、息を吸い込むようにして、赤子に還る――間際。

 ヘイズルは力の限り歯を立てた。


「――ッッ、ギィィィヤァァァァァァ!!」


 と耳を劈く絶叫を上げ、フロキが力任せにヘイズルの額を押し離そうとした。

 ごりっ、ごりりっ、

 と、鈍い音を立て歯と骨が擦れあった。口中を満たす鉄錆の味がヘイズルの澱んだ意識を覚醒に導く。怒りに目を見開き、歯を砕いてでも噛みちぎってやろうと、渾身の力を込めた。


 フロキは金切り声で喚き散らしながらヘイズルを打った。何度も、何度も、何度も打った。しかしヘイズルは離さない。どころか、歯を滑らせて親指を付け根から断ち切ろうとした。


 フロキはなりふり構わず振り回し、つま先で腹を蹴り、ついには頭を抱え込むようにして膝蹴りを見舞った。膝頭は偶然にもヘイズルの顎関節ちかくに当たり、拍子に口が開いた。その一瞬の隙をついてフロキが指を引き抜く。


「~~~~~~~~!!!」


 涙と、鼻水と、涎を垂らしながら叫んでいた。震える手で、右手の親指の付け根を押さえていた。心拍に合わせて鮮血が飛沫いた。フロキは首のスカーフ解くと親指に巻きつけ、息を大きく吸い込み、口を結び、傷口を固く縛った。膝から崩れ、背を丸め、震えていた。

 ヘイズルは口に溜まった血を粘つく唾とともに吐き捨てた。


「――〈おしゃぶり〉か。俺の趣味ではないな」


 胸がすくような思いだった。腹の底で、殺意が脈動していた。


「……な、なんで、どうして……!?」


 訳が分からないといった様子のフロキに、ヘイズルは冷徹な眼差しを送った。


「戦場に立つ兵士は死人も同じだ。死を見せたところで何が変わるわけでもない」


 言って、視線を外すとすぐに思い直した。


「――いや、違うな。ここ最近『生きていたせいで緩んでいた』。お前のおかげで、ようやく兵士に立ち戻ることができたよ。その点、感謝してやろう、卑屈な伍長」

「こ、の……この! このクソ野郎! せっかく癒やしてやったのに! このボクが、救いを与えてやろうというのに!」


 フロキが怒りを撒き散らしながら立った。作り物ではない、本物の感情に見えた。


「頭にきた、頭にきた、頭にきた! その余裕、グチャグチャにしてやる!」


 長く伸ばした髪を振り乱し、次から次へと拷問具を手に取っては捨てた。ヘイズルは、その哀れな姿にくつくつと肩を揺すった。


「――何がおかしい!」


 振り向く顔に、もはや少女の面影はない。あるのは無様な男の顔。それと――、

 ヘイズルは笑みをこらえ切れず、もうよしてくれと首を左右に振った。


「お前、下を見てみろ。前が膨らんでるぞ? どういう神経をしてるんだ?」

「――なっ……あ……?」


 野戦服風に改造した赤いワンピースの、股ぐらのあたりが僅かに膨らんでいた。

 ヘイズルは声を上げて笑った。悲しすぎて笑ってしまった。


「お前、卑屈の理由はまさかそれじゃないだろうな? なんだ、小さかろうが気に病むことはない。比べられるのが嫌なら比べるような奴と付き合わなければいい」

「うるさぁぁぁぁぁい!」


 喉が張り裂けんばかりの怒声。慰めるつもりが火に油を注ぐ結果となった。

 俯いたフロキはぶつぶつと呪詛を吐き、やがて顔をあげると、唇の端を引きつらせていた。


「い、い、い、いいことを思いついた! お前に、お前に恥辱ってものを教えてやる?」

「――何?」

「ハハハ! そうだ! そうしよう!」


 フロキはガツガツと床を蹴りつけながらヘイズルに近寄る。


「尻を出せ。后にしろ言ったけど、あれは撤回だ! お前を、ボクの后にしてやる!」

「……正気とは思えなんな、伍長」

「ああ! もう正気でいてやるものかよ!」


 フロキは右の手の甲でヘイズルの顔を叩いた。勢い倒れたヘイズルの肩を鷲掴み、力任せに背を向けさせる。そして、ベルトに手をかけた。

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