グッドモーニング, ガルディア

 遠く懐かしき我が家で目覚めた。連れ子として入ったのに図々しくも分け与えてもらった私室だ。装飾の入った天蓋。柔らかなマットレス。首をめぐらせればサイドテーブルに花瓶と水差しがあり、壁には絵画がかけてある。荒々しいタッチで描かれた、雪山を駆ける牡鹿。元は継父に連れられて行った商店の壁にあり、見入っていたら値段も聞かず買い取ってくれた。


 恵まれていた。


 ――これは夢だ。ホテルの柔らかなベッドに身を横たえたせいだろう。


 威勢よく扉が開き、愛らしい弟が駆け込んできた。そのままベッドに飛び乗って、


「お兄様! 朝食の時間ですよ! いつまで寝てるんですか!?」


 茶目っ気たっぷりに言った。だが、ホープの笑顔は判然としない。水を流したようにぼやけている。手を引かれてベッドを降り、長い廊下を抜け、食堂に入った。継父の姿も母の影もなく、女中も執事も見当たらない。純白のテーブルクロスを引いた食卓につくと、目の前には骨付きの肉が置いてあった。


 ナイフとフォークは――、と首を振ると、ホープが直に手に取り、齧りつくのが見えた。


 ぐじゅり、ぐじじ、ブチン。


 肉を噛みちぎり咀嚼し、喉を鳴らした。そんな食べ方をする子だっただろうか。汁を飛ばして骨から肉を剥ぎ取り、飲み込み、赤紫の線が残る骨にしゃぶりつく。


 ごり、ゴリリッ、グギャリ、ブキュ。


 軟骨を歯でこそぎ落とす。

 その音が耳につく。

 獣のような汚らしい食い方。嫌悪よりも苛立ちが勝つ。


「――ホープ。そんな食べ方をしたら駄目だ」

「食べないの? お兄ちゃん。美味しいよ?」


 霞の奥で笑みを浮かべ、ホープが――いや、ホープらしき何かが言い、骨をしゃぶる。


 ゴリリッ、ゴリッ、コリコリコリコリコリ……


「やめろホープ」


 コリ、ブツツッ、ゴリッ、ゴリ、ゴリ……


「やめろ!」


 叫んだ瞬間、眼前の悪夢はすべて消え、代わりに薄汚れた天井があった。じっとりとした嫌な汗が肌を伝う。ヘイズルは喉を擦った。痛みがあった。


 叫んでいないといいのだが、と瞼を閉じ、深く息を吐き出す。

 階下に、隣室に、微かな生活音がある。そして窓の外、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さく、


 コリコリコリコリコリコリコリコリコリ……


 と、奴らの食事の音が聞こえる。鼠だ。死体に群がり、骨についた肉片を鋭い前歯でこそぎ落としているに違いない。奴らはどこからともなく現れ昼夜を問わず人を食む。生死も問わない――いや、奴らは兵士はすでに死んでいるのだと、理解しているのかもしれない。


 ヘイズルは両目を擦り、遠くなりかけた意識を引き戻す。仕事の時間だ。〈隣国〉へ視察に行かなければ。


「おはようございます、ヘイズル。少し顔色がお悪いようですね」


 執務室に入ると、ミチカが昨日となんら変わらぬ様子で珈琲を淹れていた。


「営倉の硬いベッドの方がマシとは知らなかった」

「うなされていたご様子で」


 瞬間、ヘイズルはミチカと視線を交えた。紫の瞳から嘲りは読み取れない。


「……俺は叫んだか?」

「やはり心当たりがおありのようですね」

「カマをかけたのか。いい性格をしているな、軍曹」

「お褒めに預かり光栄です、ヘイズル。頂いた缶詰もありますし、食事を済ませたら早速フロキ伍長の監査に参りましょうか」

「食事か……」


 夢のせいで食欲が湧かない。しかし、いつ食事にありつけるか分からない戦地にあって、食べないという選択肢もない。

 芳醇な薫りを湛える泥水で、冷たく汁ばんだ肉を胃袋に流し込み、ヘイズルは必要最小限の装備を整えながら尋ねる。


「フロキ伍長と会うにあたって、注意事項はあるか?」

「私が把握している禁句は三つ。まず男のくせにと言わないこと。次に服装について問いたださないこと。最後に自作自演を指摘しないことです」

「自作自演だと?」

「衛生兵だと言ったはずですが」

「――まさか、自分で怪我をさせて治すのか?」


 ホルスターを吊るベルトを留め、ヘイズルは苦い顔で珈琲を口に運んだ。冷えたために香りは飛び、臭くなっていた。


「フロキは……傷を癒やし高ぶった精神を慰める力を操ります。私たちは〈おしゃぶりスーサー〉と呼んでいました」


 傷を撫でれば血が止まり、ときには千切れた手足すら繋ぐ。フィアー・キラーで恐怖を殺しておき、苦痛に昂ぶれば指を咥えさせて宥め賺す。兵士の痛みや苦しみを瞬く間に和らげ最前線へ送り出す。フロキ伍長の手により分隊は死を超越する。

 ――だが。


「ときには敗走してくる兵士も出ます。フィアー・キラーも万能ではないですからね。そんなとき、フロキは逃げてくる仲間の足を撃ち、〈おしゃぶり〉で宥めすかすのです」

「つまり自作自演か」


 痛みと苦しみを与え、癒やし、また同じ痛苦を味わいたいかと尋ねる。飴と鞭を『力任せに使いわけ』前線を維持し、分隊を拡大してきた。


「そして今のフロキ伍長は、自称二一一連隊の姫というわけです」


 リン、と部屋に吊られた鈴が鳴った。

 ミチカは表情を固くし会話を中断、ヘイズルに座っているようハンドサインを送り、扉の前に立った。ほどなく開いたそこに、


「おはよう! お姉ちゃん! もう出発の時間だよ!」


 髭面のゴルドー・バリモア伍長が待っていた。瞳孔は完全に開ききり、口の端には朝食の食べかすらしきパンくずがついている。ミチカは完成された聖母の笑みを浮かべつつテーブルに置かれていた薄汚れた布巾を手に取り、伍長の口元を拭った。


「おはよう。今日は一人で起きれたんだね。偉いね。お姉ちゃんの言いつけは覚えてる?」

「覚えてるよ! お姉ちゃんは――」


 バリモア伍長は急に年相応の落ち着きを取り戻して言った。


「ヘイズル曹長とフロキ・キャッスルを査察。私は引き続きボイラー王国を守護します」

「そう。お願いね」


 ミチカはつま先立ちになって手を伸ばし、バリモア伍長の脂の浮いた髪を撫でた。すると彼はすぐに破顔し、また舌ったらずな口調で言った。


「うん! 任せて! 悪い奴らは絶対にお家に入れないから!」


 すばやく姿勢を正し、ヘイズルに敬礼した。


「旅のご無事をお祈りしております、ヘイズル曹長!」

「……あ、ああ……ありがとう」


 ヘイズルはともすれば引きつりそうな頬を気力で抑え込み敬礼を返した。けたたましく扉が閉まり、重い足音が遠ざかっていき、部屋の鈴が澄んだ音色で鳴った。階下から響く号令。早くも頭痛が脳髄を砕きにかかった。


「……伍長のところには俺と軍曹だけで行くのか?」

「その方がよろしいかと思いますが……彼も連れていきますか?」

「試すような言い方はやめろ。癇に障る」


 席を立ち、すぐにヘイズルは言い直した。


「頼れそうな人材は軍曹しかいない。協力してくれ」

「では、ぜひ私のことをミチカと――」

「それは断る」


 即答した。ミチカは不満そうに肩を竦め、拳銃の残弾を確認した。

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