神を騙る者
胸の奥に黒い澱が溜まっていくのを感じながらも、ひとまず保留として、ヘイズルは残る北の一点を指差した。
「では、セカンドにいるのは?」
「一番ヤバい奴です、ヘイズル。会話できないのは同じですが、あいつは神を自称している」
「……神だと?」
「ええ。得体のしれない異教です。教祖兼神はリヨール・アーミテイジ軍曹。その声と言葉で塹壕に狂気と混乱を喚ぶ」
写真では、左目をまたぐ大きな傷跡を持つ、哲学者のような厳しい顔の中年男がこちらを睨んでいた。突撃小隊。階級は軍曹。突撃部隊の長を務めていたらしい。軍歴は長く、開戦と同時に最前線に飛び込んだようだ。
「――狂気と混乱とは?」
「なんと言えばいいか……声に力があるんです。恐怖に縛られている兵士に呼びかけると、同士討ちを始めたり、なかには自害する者も……私たちは〈託宣〉と呼んでいました。敵味方関係なく影響するので、彼の分隊では大量のフィアーキラーを常用しています」
「恐怖に晒されていなければ効果はないと」
「はい。ですが、今となっては対面するだけでも危険です。彼の元にいる兵士はみな狂信者と化しています。敵の、ゲリラ連中すら引き込んで信徒にしてしまっている。今のような状況になってからは会ったのも数度だけで、いずれもマトモな会話になりませんでした。できれば説得を試みるよりも殺してしまった方がいいでしょう」
そう語るとき、ミチカの声は微かに震えていた。
「……奴に会うなら、ファーストにいる連中の協力が不可欠です。少なくとも、私だけではお連れできません。まず会話にならないでしょうし、ボイラー王国の――ここの人間はヤツにとって布教の対象でしかない。国交が成立していないんです」
国交とはまた大層な言葉を使う。と苦笑しかけたが、しかし、一言「そうか」とだけ素っ気なく答え、ヘイズルは脳内で情報を整理した。
ミチカの証言が真実なら、すでにすべての英雄候補は狂気に呑まれている。前哨基地の惨状を見る限り保身のための嘘とも思い難い。
現状では英雄として連れ帰るのに妥当なのはミチカだ。会話が成立しているし、志願兵になった理由もヘイズル自身と共通するところがある。
だが、この戦場に居続けた者の証言を、一切の疑いを持たずに受け入れてよいものか――
「――結局、この目で見てみるしかないのか」
呟き、ヘイズルはため息とともに手のひらで額を押し込む。
「サードとは国交があると言ったな?」
「フロキ伍長ですか? はい。私が持ち帰る弾薬と彼女ら――失礼、彼らの用意する食料で貿易をしています。互いに友好関係にあると言えますよ」
「今度は貿易ときたか」
まったく、頭の痛くなる話だ。
「では、まずフロキ伍長に会ってみたい。次にファースト、最後にセカンドだ」
「正気ですか? フロキ伍長ならファーストの連中と顔をつないでくれるでしょうが、アーミテイジは……ファーストの連中が協力してくれるかどうか」
「その口ぶりからするとファーストはセカンドと連携を取れているということだな? だったら好都合だ。好都合だと思うしかない」
「……フロキのところ以外は案内を拒否したいのですが――」
ミチカは肩を竦めて言った。
「まあ、ヘイズル曹長のご命令とあれば断れませんね」
「そう言ってくれると助かる。まだここに慣れていないからな」
「礼なんて。上官命令ですよ?」
「それでも礼は言うさ。出発は何時にする?」
「永遠に先送りしたいです。――まあ、明朝、明け方はどうでしょうか。夜に出歩くのは安全ですが危険すぎます」
ヘイズルは思わず苦笑した。
「それはどういう意味だ」
「ゲリラには見つかりにくいですが、こちらもゲリラを見つけにくい。奴らは私たちよりもこの土地に慣れていますからね」
至極もっともな理由だった。
ミチカは重そうに腰を上げ、両手を左右に広げた。
「それで、ヘイズルはどちらの部屋を使います? もちろん、私と一緒でも構いませんが」
「なんだそれは。誘っているのか、軍曹」
「だったらどうします。受けてくれますか?」
本気とも冗談ともつかない口調に、ヘイズルは顔を見上げる。昏い、昏い紫の瞳。底に眠る悲しみと懇願、それに僅かな希望。胸を突くのは、虚しさばかりだった。
「やめておこう。上官と部下だ。俺は右の部屋を使わせてもらうよ」
「残念」ミチカは声の
そう案内された部屋は、ホテルの一室を接収したのだから当然だが、ちゃんとした寝具が揃えてあった。血にも泥にも汚れていない。黴臭さや如何ともし難い腐臭と焦げ臭さは外から漂ってきたのだろう。寝起きして外に出るなら香水を振りまいて躰に残すのはまずい。
「私は明日の日程をバリモア伍長に伝達してきます。必要があれば食事も用意させますが――どういたしますか?」
「ルームサービスまであるとはありがたい。――だが、遠慮しておく。軍曹も仕事を終えたらすぐに休んでくれ。どうも聞いている限りでは忙しくなりそうな予感がする」
「忙しいかどうかはともかく、キツい思いをするのは保証しますよ。それでは――」
言って、ミチカが踵を返した。
「――待て」
その疲れたような大柄な背に同情し、ヘイズルは思わず呼び止めた。
「なんです? 心変わりをされましたか? 人肌が恋しい?」
期待すら湛える紫の瞳に気圧され、ヘイズルは言葉に詰まった。何を言おうと呼び止めたのかすら思い出せない。意味はなかったのかもしれない。けれど、手は鞄に伸び、食べきれなかった缶詰の一つを投げ渡していた。
「良かったら食べてくれ。まだいくつかあるんだが重くてかなわん」
「……ありがとうございます。褒美と思って美味しく食べさせていただきますよ」
扉を閉める音に、少し棘があった。
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