邪教の象徴

 腐臭が鼻を刺す。異常なほど濃い薬品の匂い。網膜が捉えた微細な光を、変性した意識が増幅する。瓶の一つを手に取ると、剥がれかけたラベルにFKⅠの表記があった。


「……これ全部が?」


 口に出さずにいられなかった。躰が芯から冷えていく。一抱えもある木箱を満杯にするFKⅠの空き瓶。床にも転がっている。それだけじゃない。FKⅡの包み紙も、FKⅢの長細いシリンジも、数え切れないくらい転がっていた。


 思わず後退ると、足元で空のアンプルが砕け、ジャリジャリと鳴った。

 冷たい汗をかきながら首を巡らせると、医薬品と銘打たれた木箱があった。そこに、たしかに消毒瓶はあった。包帯も。ただし、薄汚れていたが。


 ヘイズルは唇に湿りをくれ、縫合糸と針を取って部屋を出た。

 壁は崩れかけ、床は苔むし、天井は今にも崩れてきそうだった。

 べしゃり、べしゃり、と水っぽく重たい足音が廊下を歩いてくる。ヘイズルはリボルバーを顔の横に構え、暗闇に潜んだ。足音が階段の前を通り過ぎる間際、雷鳴が轟き、閃光が照らした『それ』に、ヘイズルは戦慄した。

 緑がかった灰色の肉の塊――ホルマリン漬けの臓器に似た肉塊が歩いている。


 おぶぶぶぶぶぶぶぶぶぅぅぅぅぶぶぅぅぅ……。


 と、呼吸とも言葉ともつかない音を発しながら、肉塊は目の前を通り過ぎていった。


 ――ここは、なんだ? 俺は何を見ていた?


 銃を握る手が震える。今にも引き金を引こうとする指を、左手で剥がし、トリガーガードに乗せた。化け物しかいない。ミチカはそう言っていた。


 今や教会は、彼女のいうようにパンデモニウムへと変貌していた。

 ヘイズルは唾を飲み、気配を窺いながら廊下に出る。日差しの心地よかった廊下も今は瓦礫と得体の知れぬ骨が散らばり、あちこちから同じ足音が聞こえた。灰色の肉体は見た目では正面が分からない。進んでいる方向が正面、そう信じるしかない。


 どうか見つかりませんようにと念じ、ヘイズルは雷鳴に合わせ飛び出した。廊下の壁の、折れて寄りかかる柱の隙間から、庭に這い出る。


 オブボボボボァッ! と、肺に詰まった水を吐くような声がし、すぐに湿った足音が駆けてくるのが分かった。想像以上に早い。


 ヘイズルは舌打ちし、息を詰めて駆け、崩れた壁から聖堂へと逃げ込んだ。

 すぐに、ボゴン! と肉塊が巨躯で柱を粉砕する音が聞こえ、猛然と足音が寄ってきた。ヘイズルは四つん這いになり、稲光を頼りに朽ちた長椅子の下に潜り込んだ。


 肉塊が、壁を打ち壊そうと叩いていた。打つたびに、震動で聖堂全体が揺れているように思えた。長くは持つまい。じきに崩れ、侵入してくる。


 手にしたリボルバーをこれほど心もとなく思ったことはなかった。

 考えろ、考えろ、考えろ――そう頭の中で繰り返し、ヘイズルは手元にあった煉瓦の瓦礫を拾うと、聖堂の入口めがけて放った。


 ガツン! と一度、鈍い音を立てて、煉瓦の破片が廊下を転がる。壁を打つ手が止み、べしゃり、べしゃりと、足音が遠ざかっていった。ヘイズルは口を手で覆い息をついた。


 物音を立てぬよう細心の注意を払って長椅子の下から出、これまでロクに祈らないできた神に救いを願い、神像を見た。稲光が閃き、ヘイズルは酷い虚脱感に見舞われた。


 普通の教会ならば神像が据えられているであろう場所に、冒涜的なオブジェがあった。


 ――柱だ。


 何十という人の躯を有刺鉄線で結びつけ、螺旋状に捻り上げて拵えた、背徳の象徴。地獄の底で栄える邪教の源。足元に並ぶ連邦の印章が入った木箱を見て、瞬時に気づいた。ミチカは見たのだ。まだ化け物に支配される前にここに来て、狂気の極限を目撃した。だから狂気に堕ちたと断言できた。だから、二度と来たくないと言っていたのだ。


 ――ミチカ……!


 枕の下に銃を隠していた。不安だったはずだ。頼んだ品をミチカの部屋に運べと言ったのは失策だった。彼女には化け物の姿が見えていたが、しかし、化け物の言葉は聞き取れない。


 もしも、部屋に入ってきた奴らに銃を向けてしまったら――。

 化け物に話しかけられ、返す言葉に窮したら――。

 ヘイズルは急ぎ入ってきた穴に近づき、腰を屈めた。そのとき、

 う、と背後で何かが呻いた。

 驚き、振り向くと、螺旋の柱として再形成された躯たちが、一斉に口を開いた。


 オオオオオオォォォォォォォォォォォォォォンンンンン!


 聖堂全体を鐘とした、大口径の榴弾砲よりも凄まじい叫びに、ヘイズルは両耳を塞いだ。凄惨な悲鳴が頭蓋の内を跳ね回る。這々の体で外へと逃れ、壁を伝って宿舎へ歩いた。あれが本体かと、肩越しに聖堂を――悪魔の集うパンデモニウムを睨んだ。耳鳴りに何度も首を振り、上階の気配を常に探りながら、急な階段を昇った。今見ると、いつ落ちてもおかしくないほど歪んでいた。空で雷鳴が届くたびに足元が揺れ、煉瓦と石の塵が降った。


 廊下を覗く。肉塊はいない。部屋の前で腰を下ろし、扉のノブに手を触れたとき、自分が震えているのに気づいた。


 ――もし、ミチカも化け物になっていたら。


 最悪が脳裏を過る。リボルバーを握り直し、そっとノブを回す。息を、吐く。一気に扉を引き開け、銃を構えながら入った。


「――おかえりなさい、ヘイズル」


 ミチカはベッドの上で胡座をかき、片手で頬杖をついていた。

 ホッと安堵の息をつき、ヘイズルはハンマーを戻しながら銃口を上に向けた。

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