ミチカの異変
聖堂のすぐ脇にある宿舎の、二階に用意された一室に通され、ベッドにミチカを横たえると、
「あとは我々が診ます」
と白ローブが言った。ヘイズルは「お願いします」と言いながら、部屋から離れられなかった。しばらくして、タオルと水桶、薬が持ってこられた。後はお任せしますと言いながら、ヘイズルはやはり自らの手でミチカの傷を洗い、薬を選別して与え、頭に乗せたタオルを交換した。自身の腕の傷くらいは任せようと思ったのだが、やはり躰は動かなかった。
そうして、夜が来た。
オオオオオオォォォォォォォォォォンンン……
と夜も鐘が鳴った。また、風に乗り、ディーロウの獣のような雄叫びも聞こえた。
また、朝が来て、鐘が鳴り、幾度か白ローブとリヨールが顔を見せ、穏やかな会話を交わして夜を待つ。鐘が鳴り、叫びが聞こえ、朝が近づき、
「――ンンッ……ゥ、ア」
と、ミチカが小さくうめきながら身動ぎした。その声で、ベッドサイドに置いた椅子で眠りこけていたヘイズルも目を覚ました。慌てつつも慎重に、躰を揺する。
「ミチカ。ミチカ。聞こえるか?」
額に乗っていたタオルを除け、手の甲で触れると、熱はすっかり下がっていた。
ミチカは悩ましげに眉を寄せて数度、躰を捻り、やがて長い睫毛を細かに震わせた。
「……ヘイズル?」
丸二日と少し眠っていたから、少し舌足らずになっていた。
「ああ。そうだ。よく戻ってくれたな、ミチカ」
できうる限り平静に、と考えていたが、どうしても喉が少し震えた。
ミチカは安心したように笑みを浮かべた。
「軍曹が取れてる。私はどれくらい寝ていたんですか?」
「二日と少し。本当に、よく起きてくれた」
「どうしたんです? やけに――なんというか、しおらしいじゃないですか」
ミチカは笑顔のまま首を振り、
「ここは――リヨールの教会ですか」
窓の外を見て兵士の顔になった。
態度の急変に困惑しつつ、ヘイズルは頷く。
「そうだ。最初からその予定だっただろう? 熱にやられて忘れてしまったか?」
「……なんで、笑っていられるんですか?」
そう問われて、ヘイズルは違和を感じながらも答えた。
「なぜ? なぜって……ミチカが起きてくれたからだ。決まってるだろう。随分と脅されたから心配していたが、来てみたらどうだ。リヨール様は優しくしてくれるし薬だって――」
「リヨール、様? ヘイズル、彼は私と同階級です。様を付ける必要はありません」
ミチカは表情を険しくし、躰を改めた。
「私の装備は――野戦服はどこです?」
「どうした? 何を慌ててる。野戦服ならそこに――」
ヘイズルは部屋の壁に沿うようにして置かれた棚の上を指差した。清潔な服に着替えさせたあと、ずっと放置していた。起きる前に洗濯を頼んでおけば良かった。
「すぐにそれを――私に」
ミチカが上体を起こし顔をしかめた。傷が痛むのか、ずっと寝ていて筋肉が固まったか。
「おい、あまり無理をするな。まだ――」
「早く!」
剣幕に気圧され、ヘイズルは首を傾げながら汚れた野戦服を渡した。ミチカはすぐにズボンを手に取るとポケットをまさぐり、丸っこい小さな紙の包みを取り出した。
「ヘイズル、これを使ってください」
「――これは?」
手渡された包みと、その重量、形に、本能が嫌気を感じた。
「まさかフィアーキラーか? 俺はいらんぞ、こんなもの」
「いえ、いります! ヘイズル、あなたは今リヨールの術中にいる!」
術中とは――? ぶつけられた言葉が頭に入ってこなかった。耳には届いているし、知ってもいる。しかし、何かが、意味を解するのを妨げていた。
ミチカは薄っすらと顔を青くしながら真剣に言った。
「ヘイズル。お忘れですか? リヨール・アーミテイジは恐怖にかられた兵士を声で操るのです。あなたは今、リヨールに操られているんですよ!」
一部の単語を除いて理解できなかったが、不快だけは湧いた。特に恐怖にかられたという言われようだけは我慢ならなかった。
ヘイズルは胸の内に細やかな殺意を覚えながら、声を低めた。
「俺が恐怖にかられたと、そう言っているのか、軍曹」
「――ミチカです、ヘイズル。私はあなたのために言っているんです。耳を貸してください」
「耳なら今も貸している。リヨール様に助けていただいておいて――リヨール様に……」
なぜ、様をつける? ミチカに言われた言葉が脳内で反響した。なぜと言われても困る。そうしなければならない――ことは、ない?
ヘイズルは窓の外を見やった。先ほど、ミチカはそれを見て顔を険しくしたが、窓の外には風に揺れる大きな鳥籠と鳩のための餌箱しかない。それの何がおかしい。
手元のフィアーキラーに目を落とし、ミチカの紫の瞳を見つめ、ヘイズルは唇を舐めた。
「俺が操られているだと? バカな。俺はずっと――ずっと戦場にいたんだぞ? 教会の何を恐れる。たしかにここは地獄だ。だが似たような場所はいくらでもあった。といっても――」
ヘイズルは舌にひっかかりを感じ、言葉に詰まった。
「といっても、なんです?」
「……分からん。勝手に口が回った」
「ヘイズル。お願いです。すぐにそれを――」
コン、コン、コン、と打ち鳴らされたノックに、ミチカは口を噤んだ。すぐに手を伸ばしヘイズルにフィアーキラーの包みを握り込ませる。
扉が開き、リヨールと白ローブが新しい水桶とタオル、薬を持って現れ、
「おお! ボーレット! 目を覚ましたか! 良かった!」
破顔した。慈愛に満ちた神の如く晴れ晴れとした笑みだった。見ているだけで心癒され、また優しい気持ちになれた。
だが一方で、ミチカの笑顔は固い。すべての感情を笑顔で塗り固めてしまおうかという、ガルディアの岩肌を思わせる笑顔だった。
「……リヨール……なのか……?」
その声もまた、固い。
オオオオオオオォォォォォォォォォォンンンン……
とリヨールが鐘の音を歌った。
「久しぶりだな、ボーレット君。気分はどうかね? 腹は空いたか? いま食事を持ってこさせるからな。たくさん食べて栄養をつけるといい」
なんと慈悲深いお言葉だろうか。とヘイズルは一礼した。
「おかげをもちまして、こうしてミチカも命を取り留めることができました。これもひとえにリヨール様のおかげです。いったい、なんとお礼を申し上げればいいのか……」
滑らかにそう口にしながらも、違和感が残った。言われたばかりの階級を含めた言葉遣いの違和感。最初の一言以外いっさい口を挟もうとしないミチカの姿。
何かがおかしいと分かるが、なぜおかしく思うのかが分からない。
やがて、白ローブがパンと肉、チーズ、柘榴の乗ったプレートを二つ持って戻ってきた。
「おお、来たか。持っていってやれ。だいぶ腹も空いたはずだ」
白ローブは厳かにプレートを運び、二人に手渡すと、しずしずとリヨールの後ろに下がった。
ヘイズルはプレートを見下ろし、まず何から手をつけようかと思った。
まずはやはり、固焼きのパンからか。いや、肉。肉がいい。しかし、大きく割れた柘榴を見ると喉の乾きが気になってくる。瑞々しい赤く小さな実にはしたないと思いながら、つい喉が鳴った。もう我慢できない。
柘榴に手を伸ばそうとしたとき、ミチカが言った。
「そこにいられると落ち着かない。食事のときくらい二人にしてくれないか?」
呆気にとられるヘイズル。リヨールはぐらりぐらりと躰を揺らした。
「まあ、積もる話もあるのだろう。好きにするといい」
残念そうに言って、「ごゆっくり」と下がった。扉が閉まり遠ざかる足音がやがて聞こえなくなるとすぐに、ミチカが大きく息をついた。
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